13. 現代社会が家庭の構造に与える影響
この節を読んで頂く際の注意点
はじめに、この節を読んで頂くにあたっての注意点を書かせて頂きます。
この節で書く内容は、何となく読んでしまうと、『母親が悪く、母親が心を入れ替えるよう努力することで事態は改善する』というようなことが書かれているような印象を受けてしまうかも知れません。
しかし、書いているのはそのようなことではありません。
繰り返しますが、『人の問題ではなく、役割が持っている問題だ』ということを書いています。
誤解の内容にお読み下さい。
13-01. 『こころ救済システム』を取り巻く現代社会の状況
- 核家族という概念の浸透は、子供の『あやし役』になりうる大人の数を減少させました。
- 自家商売で生計をたてる家族の割合が減り、職場に赴いて賃金を得るいわゆるサラリーマン型の職業の浸透により、家庭に父親が存在する時間を減らしました。 (そして、労働の長時間化は、それに拍車をかけています。)
- また、転勤という概念の浸透によって、地域社会(地域家族といっても良いかもしれません)を崩壊させるように働きました。
このような背景は、高度成長期といわれる頃から、私たち日本人に徐々に浸透し、今では、当たり前のことのように受け入れられてしまっているように思います。
そして、現代の家庭は子供と関わる大人は母親一人だけという時間が、家庭における時間の大部分を占めてしまうような構造になっています。
この構造的な問題によって、これまで説明してきこころ救済システムの崩壊がかなり以前から進行してきたのだろうと思います。
13.02. 現代社会が『正しく機能する家庭』に及ぼす影響
まず、子供との関わりでリアルタイムに役割を分担することができません。
つまり、子供が親から叱られたり感情をぶつけられたりしたときに感じる嫌な気持ちに、即座に『あやし役』として関われる大人が不在になるということです。
今の社会では、父親が家にいるということが非日常的なことなので、
- 母親の『父親と子供の仲を取り持とうとする日々の努力』
- 父親の『子供の中の日常と非日常のギャップを埋めようとする日々の努力』
が弱い場合は、子供と父親の心理的な関係は希薄なものになります。
このことは何を意味するかというと、父親と母親がこのような日々の努力を行っていなければ、タイムラグがあることを許容範囲に入れたとしても、父親を子供が『あやし役』だと受け入れ難いだろうということです。
つまり、今の社会の中の家庭環境において、子供たちが母親の感情に直面し、母親の気持ちを子供の方が受けとめこらえることで事態の収拾を図るという状況は、その構造上多かれ少なかれ必ず直面していると想像されるのです。
- 母親の感情的な対応をいつまでも受けるのが良いのか?
- 嫌な気持ちになるけれども、母親に服従し事態の収拾を図る方が良いのか?
このように書くと、「どっちの苦しみの方がマシか?」という選択をしていることは分かると思うのですが、その状況子供たちは、「母親が怒らないことこそ好ましい」と誤認してしまうのだろうと思います。
小さな子供にとっては、母親こそが世界の支配者です。
母親の仕打ちにいつまでも泣いていても、母親の感情を逆なでするだけで、事態が好転する事はまずありません。
また、母親から離れて、一人っきりで泣いてみてもつらさは増すばかりです。
そこで、その場は泣き止み、母親に服従することが事態を収める最善策となります。
また、日々の生活の中で、母親の機嫌が良くなるように行動したり、反応したりすることこそが、『自分が嫌な気持ちになって、その嫌な気持ちに一人ぼっちで向き合うという、あのつらい気持ちになる』ということを防ぐ最善の策だと考え対処するようになるのです。
そのように順応する中で、自分の気持ちを抑えることで母親の愛情を受け取っているという感覚が薄れ、母親をただ、愛情を与えてくれる存在と認識し、自分が我慢していることが分からなくなるのです。
そして、自分が苦しいことに気付けなくなり、また、苦しいことに気付いても、それを受けとめ我慢したりすることにばかり思考が向くようになり、誰か違う人に気持ちを受けとめれもらえば、気持ちは大丈夫になるなんてことは想像がつかなくなってしまうのです。
完璧にそんな状態になるということは少ないかも知れませんが、しかし、現代社会の家庭から社会に送り出される人たちは、多かれ少なかれそのような傾向を持ち合わせることになるのだろうと思います。
『あやし役』を家庭に存在させない現代の社会構造が、このような状況を引き起こしているということです。
【補足】 現代の家庭が持つ構造的な問題
親が『こころ救済システム』のイメージを持っていた場合は、感情的に対応してしまった結果、子供が泣いてしまった場合、その子供を抱き上げ、安心させようと考え、行動するかもしれません。
しかし、こうしようとすることによって、そのように対応しようとする親には、心理的矛盾が生じてしまいます。
- 子供の行動によって生じたもともとの感情
- 子供をあやすことによって感じる感情
そして、思うのです。
「感情的にならなければ良かった・・・」。
子供の感情を大丈夫にするには、ただでさえ相当の心理的体力が必要だと思います。
そんな対応を、もともとの感情を抱えながらやるなんて、並大抵のことではありません。
しかし、それをやらなければ、子供が感情をぶつけるという煩わしい状況からは抜け出せないのです。
まとめると、
- 親自身の心の問題ということ以前に、この構造自体にもともと無理がある
- その構造によって、親の心が矛盾を抱えることになる
ということです。一人二役には限界があります。そのことは、知っておいて下さい。
【補足】 第二次反抗期(思春期)について
親の感情を受け止めるために身に付けた洗脳にも似た状態の中で、自分は我慢していたんだというようなことに気付くのが、第二次反抗期とか思春期とか言われる時期だと思います。
悪いことに、現代社会においては、大学や専門学校を経て社会にでるまでの間の経済的支援を受けなければならず、その為に親に従う必要があります。
しかし、中学や高校の頃に目覚めてしまうと、社会に出るまでの長い期間、親に従い続けることがとても苦しく感じるようになってしまいます。
「いっそうのこと目覚めてしまって、社会に出てしまう」という道もありますが、今の社会では、思春期の時期に、動物全般に訪れる巣立ちという行動をする人には、異端児的な視線を投げかけるようなところがあり、容易に選択できる道ではない感じがしてしまいます。
そこで、子供たちは、目覚めかけながら目覚めを遅らせるようなことを無意識にしなければならず、その結果、反抗期が無いという状況が生じるのだろうと思うのです。
反抗期という言葉を用いると誤解してしまいますが、その本当の意味は、自分の本当の気持ちや感情への気付きとそれまでの洗脳から解放が起こる時期なのだろうと思います。
このような子供たちに訪れる目覚めの時期は、親の支配から離れられる社会人になった後に訪れることが多いと思います。
この時期に目覚めを迎える人たちは、大体の場合、『こころ救済システム』を体得していませんから、孤独に悩み込む傾向があるように思います。
そんな傾向性を持った人が、親元を離れて一人になった時に、苦しい目覚めと向き合わなくてはならなくなるのです。
そんな彼らを一人っきりにするのは、とても危険です。 誰かが手を差し伸べなければなりません。
しかし、そんな彼らは、困ったことに、手を差し伸べられてもそれを拒否し、子供の頃と同じように、一人きりで苦しみを抱えてしまう傾向性を身に付けてしまっているのです。
そこが、一番、難しいところです。