04 「つながり」に関するイメージ
この世の中のあらゆるものは、ただ存在するだけで、それを取り巻くあらゆるものと関係性を持っています。
何もしなくても既につながっているのです。
人間関係についても同じことがいえるのですが、この関係性の感覚に狂いが生じると、人間関係が旨くいかなくなってしまいます。
ここでは、そんな説明をしていきます。
4-1 群れる習性
動物の関係性の象徴的な現象である「群れ」について考えてみます。
動物は「群れを作ろう」と考えて群れを作るわけではなく、不安と安心という感覚によって次のような流れで群れが形成されると考えられます。
(1)他の個体との距離が離れすぎると本能的に不安な感覚が生じる
(2)不安を解消しようとして、他の個体との距離を縮めるための行動が引き起こされる
(3)一定の距離を確保できれば、不安は消失し安心になり行動が止む
(4)これらの反応の繰り返しが、それぞれの個体に起こることによって、結果として群れが形成される
このように考えると、動物は不安が生じても直ぐに不安を解消して安心な状態になれるといえます。
人間は、猿の仲間ですし、また、社会を形成して生きている現状からも、猿と同じように群れを作る習性があると考えられます。
ですから、人間も他の動物と同じようにすれば、簡単に不安が解消して安心な気持ちになると考えられます。
ところが、人間は複雑な思考が本能よりも優先されるので、そう簡単にはいきません。
何らかの集団(会社・グループ・仲間・クラスなど)に属している場合、距離的には既につながっているのですから、その集団に自分に対する悪意が働いていなければ、「つながっていない」と感じることはないはずなのです。
しかし、「つながっていない」と感じる人はいます。このようなことを考えると、「つながっていない」と感じるのは、「本能的に生じる不安」とは「別の不安」が原因だといえそうです。
集団に属さずに過ごしているときに、そんな別の不安を孤独感と解釈すると、何らかの集団に属したくなります。
しかし、そのようにして自分が「つながっている」と思える状態を作り上げても、「別の不安」は解消されずに残ったままになります。
そして、今度は、残ったままの「別の不安」を「集団に関わることによる不安」と解釈し、集団に属すことを煩わしく思うようになったりするのです。
そのような心理状態では、集団に属しても属さなくても不安は消えずに残ったままで、いつまでたっても安心な気持ちになることはできません。
どちらに転んでも不安には代わりはないので、結局、それまでの人生の中で、奇しくも一番安心だった状態、すなわち「孤独」という自分を守るための殻の中に舞い戻ってしまいます。
このような個人の原因に加えて、社会の複雑なルールや常識、現代の社会の形態なども、「つながり」の感覚を薄れさせるように働きます。
4-2 私の不思議な体験
以前、あるお寺の攝心(せっしん)という行事に参加したことがあります。それは2泊3日の坐禅会で、私を含めて4名が参加していたと記憶しています。
朝起きてから寝るまでの間、食事の時間を除いて、50分の坐禅と10分の休憩が繰り返されます。
詳しい説明は省きますが、最も重要なルールは「言葉を使ってはならない」というものです。
分からない作法などは老師に尋ねましたが、参加者同士の会話は一切ありません。
会話のないまま、坐禅を繰り返す3日間でした。
初めの内は、話せないことが苦痛でしたが、慣れると共に不思議な感覚が生じていることに気付きました。
「自分は、ただ存在しているだけでいい」という安心感です。
「余計なことを言って嫌がられるかもしれない」とか、「何か話さないと嫌がられるかもしれない」などと思い煩うこともありません。
そして、何もしていなくても、孤立してしまうこともないのです。
私にとって、とても心地良い感覚でした。
この心地良い感覚は、言葉を使わないことで、余計な思考から解放された結果、「群れを作る本能によって生じる安心感」を感じられたからだと理解しています。
もう1つ理解したことは、「つながっている」という安心感は、「つながっていないものを無理矢理つなげても得られるものではない」ということです。
初対面の人でも一緒にいるだけで安心になるということは、「もともと人と人はつながっている」ということを示していると考えられます。
この安心感は、言葉を使わないことによって生じた感覚です。
ですから、言葉は、人の「つながっている」という感覚に、何らかの影響を及ぼしていると考えられます。
4-3 「つながり」を切断する学習
自然な人間関係を築ける人は、意識していなくても無意識のところで「つながっている」という感覚を持っていて、逆に、人間関係が苦手な人は「つながっている」という感覚が弱いところがあるように思います。
人がもともと持っている「つながっている」という感覚が弱くなってしまう理由は、その感覚が「つながっていない」という感覚で置き換わっていくからだと考えています。
そのような置き換えを引き起こすのは、否定されたり、責め立てられたり、追い詰められたり、追い出されたりといった体験の積み重ねです。
そのような体験によって、「つながっていない」という感覚が「つながっている」という感覚よりも強くなってしまうと、「つながっていない」という感覚に支配されてしまうようになるのです。
この「つながり」に関するたくさんの体験を積み重ね、心の中の「つながっている」という感覚と「つながっていない」という感覚の比率が決まってしまう場所が、子供の頃の家庭です。
子供時代の家庭の中で、「つながりを切られる体験」が少なかった人は、成人した後でも「つながりが切れたり切られたりする体験や出来事」に対する不安は小さく、気持ちは安定しています。
逆に、「つながりを切られる体験」が多いほど、「つながりが切れたり切られたりする体験や出来事」に対する不安が大きくなるため、周囲の状況に敏感になって、刻々と変化する周囲の状況に気分が振り回されてしまいやすくなります。
4-4 つながりに関係する「1次感情体験」と「2次感情体験」
人には、人・もの・概念など、どのような事象に対しても、つながりが確認できたり、その関係性の変化を感じ取ったりすると、何らかの感情が生じるところがあります。
【例】
○人と出会う、人と別れる
○嘘をつかれる
○けんかする、仲直りする
○心から応援してくれていることを知る、感じる
○ものを買う、ものを作る、ものが壊れる
○生まれる・死別する
○ものを紛失する、紛失していたものが見つかる
○成功する、成功を逃す
○夢を実現する、夢が消える(絶望する)
○認められる、認められない
○目標が達成できる、達成できない
他にも色々ありますが、このように感情を伴う体験を「1次感情体験」と呼ぶことにします。
人はこの1次感情体験を自分の感情の原因と考えます。
そして、その感情が不快なものであれば、この因果関係の中のことに働きかけて、1次感情体験によって切断されたつながりを修復して、「感情に関する問題」も解決しようとします。
もし、元通りに修復できない状況なら、「元と似た状態」を作り出すことで、つながりを擬似的に復元しようとし、それも不可能なら忘れようとします。
しかし、本当に大切なのは、1次感情体験の後の体験なのです。これを「2次感情体験」と呼ぶことにします。
2次感情体験には、「つながりを修復する体験」と「つながりが切れていることを強化する体験」の2種類があります。
【修復型2次感情体験】
つらい気持ちを話したときに、相手から次のような関わりをされると、「つながりが切れている」という感覚は消失して、ダメージを受けた心を回復させてくれます。
○話をしっかり聞いてもらえる
○つらい気持ちになる出来事に至るまでの努力を認めてもらえる
○つらいと感じていることを肯定してもらえる
○安心な気持ちになるまで、余計な助言をせずに、ただそばに寄り添ってもらえる
【追撃型2次感情体験】
勇気を出してつらい気持ちを話しても、相手から次のような関わりをされると、「つながりが切れている」という感覚が強化され、おまけに新たな「つながりが切れている」という感覚まで生じさせられ、心に更なるダメージを受けてしまいます。
○話を聞いてもらえない
○つらい気持ちになる出来事に至ったことを責められる
○つらいと感じていることを否定される
○つらい気持ちのまま放置され、一人きりで耐えなければならない
ここで興味深いことは、つながりが切れたことによるダメージから心を回復させるための「つながりを修復する体験」は、1次感情体験で切れたつながりとは無関係のものであっても良いということです。
そして、それに活用できるのが、人間関係を利用してつながりを修復する方法です。
例えば、物が壊れるなどして、ものとのつながりが切れたときの悲しさも、人との関係によって修復できるということです。
これが理解できれば、たとえ、自分しか持っていなかった「世界でただ1つしかない宝物」を壊してしまっても、それによって受けたダメージから心を回復させられるようになります。心理カウンセリングも、その方法の1つです。
私たちは、1次感情体験として、どんな出来事に遭遇するかを選択することはできません。
何が起こるか分からないのが人生です。
しかし、2次感情体験は、自分で選ぶことができるのです。
心がダメージを受けたとき、どのような2次感情体験が心の回復につながるのかは、子供の頃の「親や大人との関係の中で、実際に心が救われる体験」を通して覚えていきます。
子供は、家庭での親子関係の中で、2次感情体験を最も頻繁に体験します。
家庭での様々な2次感情体験の中で、自分の心を救ってくれた2次感情体験の積み重ねが、成長した後も、心にダメージを受けたときの「その人にとっての現実」のベースとなります。
つまり、「心が苦しくなると楽にならない現実」と「心が苦しくなっても楽になる現実」のどちらを生きるかが、子供の頃に蓄積した2次感情体験の種類によって決まってしまうのです。
4-5 「つながり」が切れていると感じている人の傾向(1)
つながりに関する感覚は、他人からのコミュニケーションに対する悪意・善意の感覚にも影響します。
悪意はつながりを切ろうとするコミュニケーション、善意はつながりを強めようとするコミュニケーションと解釈できます。
「つながっている」という感覚が強い人は、つながりを強化されたり、切られたつながりを修復されたりした記憶をたくさん蓄積しているので、コミュニケーションを、まず善意として解釈しようとする傾向があります。
逆に、「つながっている」という感覚が弱い人は、「つながり」を切られた記憶をたくさん蓄積しているので、コミュニケーションを、まず悪意として解釈してしまいやすい傾向があります。
言葉・コミュニケーション・考えなど、大抵のことは、解釈次第でどのような意味にでもとれるところがあります。
ですから、「悪意がある」という前提で解釈してしまえば、相手に対して攻撃的・防衛的になるでしょうし、「悪意はない」という前提で解釈すれば、色々なことを受け入れたり許せたりするでしょう。
悪意を感じやすい人は、攻撃的になって色々な人との関係性を断ち切ってしまったり、逆に、防衛的になり過ぎて人との関係性を遮断してしまったりして、孤立してしまいがちです。
そのようなコミュニケーションの結果、つながりの感覚の弱い人たちが、自然な人間関係から浮いてしまいがちになります。
そのような自然な人間関係を築くことが苦手な人たちが、人とつながろうとすると、力や目的によって、お互いを束縛してしまい易いところがあります。
そして、何らかの集団を形成しても、「つながっている」という安心感よりも、つながりが切れてしまうかもしれないという不安感に支配されてしまうことが多いのです。
共に過ごすことで生じる安心感によって自然に形成された集団でなければ、不安は消えずに残ってしまいます。
そして、消えずに残っている不安が、集団を形成したときとは違う解釈を付け加えて、集団に属していることに対する新しい不安の原因を作り出してしまうのです。
コミュニケーションを悪意と感じやすい傾向は、子育ての場面でも、問題を引き起こすことがあります。
基本的に、小さな子供がすることには、悪意など一切ありません。
それにも関わらず、子供の純粋な感情表現に対して、ありもしない悪意を感じてしまい、子供との関係性を切るようなコミュニケーションをしてしまいがちになるのです。
例えば、親が怒って子供を泣かせてしまったとき、ただ悲しくて泣いているだけなのに、「親に反抗している」と解釈して更に子供を責め、それをきっかけにして泣き方が激しくなれば、今度は「泣けば思い通りになると思っている」などと解釈して、勝手に感情をエスカレートさせてしまう感じです。
「つながっていない」という感覚によるこのような影響から解放されるためには、「つながっている」と感じられる体験を繰り返すことによって、「つながっていない」という感覚を「つながっている」という感覚で置き換えていくことが必要です。
「つながっている」という感覚が強まれば、悪意と解釈してしまう傾向が自然に薄れていきます。
4-6 「つながり」が切れていると感じている人の傾向(2)
「つながっている」という感覚がベースにある人は、自分の周りに自分とのつながりを切ろうとする人間関係が多少あっても、無意識の中に「他のところで太くつながっている」という感覚があるので、安心感はあまり揺らぐことはありません。
そのため、自分とのつながりを切ろうとする人の関わりにあまりこだわらずに、そのままにしておけます。
また、それによって心にダメージを受けても、「つながっている」という感覚を身につけた経験を活かして、人間関係の中でスッキリした楽な気持ちに心を回復させることもできます。
その結果、嫌な気持ちが早く回復するので、不快な気持ちのまま考え続けることもなく、偏った考えや解決策に執着することにもなりません。
ところが、「つながっていない」という感覚がベースになっている人は、つながりを切ろうとする人が現れると、それまでは意識することもなかったその人とのつながりに、意識が集中してしまうようになります。
そして、「つながりが切れないようにしなければならない」という心理が働き、自分とのつながりを切ろうとする人に、逆に、引き寄せられてしまうところがあります。
また、「つながろう」としてくれる人が現れると、その人との関係が自分にとって好ましいかどうかとは無関係に、引き寄せられてしまうところもあります。
4-7 母性と父性
心理カウンセリングの1番の目的は、相談者が「つながっていない」という感覚から解放され、「つながっている」という感覚を取り戻すことだと考えることもできます。
自分のありのままの感覚や感情を話しても、相手から「否定されない」「関係性を切られない」という経験を繰り返しているうちに、「つながっていない」とか「つながりたい」という考えに振り回されなくなります。
「自分は他者とつながっていない」という感覚が薄れてくると、もっと親密になりたい人とは、自分から関わりを持ちたくなってきます。
逆に、親密になる必要のない人とは、必要以上に親密になろうと努力しなくなります。
元来、人は、母性的な関わりによって、心が安心な感覚で満たされると、他人が後押ししたりアドバイスしたりしなくても、自分の望むように行動するものです。
ですから、心理カウンセリングを「自分らしく行動できる状態を取り戻す」ということに活用するのなら、心理カウンセリングに母性的な雰囲気があることが大切であり、父性的な部分や知性的な部分は必要ないと考えられます。
社会には常識として「○○すべき」という雰囲気が山のようにあります。
そこに、社会性を身につけるためには父性的な関わりも大事だと、心理カウンセラーから「このような場合にはこうした方が良いですよ」などとあれこれアドバイスされたとしても、あまり助けにはなりません。
それらのアドバイスは、「このようなときは、このようにすべきだ」という社会の常識的なことに紛れ込み、同じ位置づけになってしまいます。
また、自分がしなければならないと思い込んでいること、他人から命令されたこと、社会にある「このようなときは、このようにすべきだ」といったことを実践したところで、それは自分の望みに従って行動したことにはなりません。
自分の望みに従わなければ、自分の心が満たされることもありません。
社会に適応するために、父性的な関わりが必要であったとしても、心理カウンセリングが本来の目的を果たして終結した後、コンサルテーションという別の枠組みで行われるべきです。
心理カウンセリングの役割は、「母性的な関わりによって、安心感を補充することである」と断言しても良いと思います。
余談ですが、子育ても同じです。しつけの前に、まず、母性的な関わりによって、子供を安心な感覚で包み込んであげることが必要だといえます。