02 思考
2-1 浮かび上がる答え
私たち人間にとっては、何も考えていない状態でいることはとても難しく、大抵の場合、何かを考えています。
「考える」とは、頭の中であれこれと思考を巡らせることです。
その際、私たちは、言葉を道具として使います。
誰かと議論するときに、互いの考えを言葉によってやりとりするような感じに、自分の頭の中で様々な言葉を浮かべながら論理を展開させていきます。
このようなことから、私たちがイメージする「考える」という行為は、言葉が存在することが前提で成立していると理解することができます。
私たちは、「言葉があるから考えることができ、逆に、言葉がなければ考えることができない」と思っているということです。
たぶん、この説明を読んで、疑問に思う人はほとんどいないと思います。
しかし、私たちは「言葉を使わなければ思考はできない」と思い込んでいるだけで、実際はそうではないようなのです。
意識して考えていたことでもないのに、突然「分かった!」と心が晴れるような感覚を伴って、何らかの答えが浮かぶ経験を、誰もがしたことがあると思います。
このような答えは、考えようとして導き出したものではありません。
考えてもいないのに、また、それに関する答えを求めていたわけでもないのに、自分にとっての答えが自分の内側から湧きだすようなことが起こるのは、とても不思議なことです。
「どうして、そのようなことが起こるのだろう?」、この疑問が思考について考える上で大きなヒントとなりました。
2-2 不思議な現象
以前、催眠療法をしていて、人は考える過程を経なくても、考えようとしたことの答えを既に知っているのではないかと感じたことがあります。
ある相談者の方が、「仲良しの友人が自分の嫌いな人と仲良くなってしまい、うまく付き合えなくなった」と悩んでおられました。
色々と話をして、「その友達にまとわりつく、嫌いな人を思い出させる雰囲気を取り去れば、以前と同じように付き合えるようになるかもしれない」ということになり、催眠療法を行うことになりました。
それで、実際にやってみると、不思議なことが起こったのです。
催眠状態の中で、相談者の方がイメージした友人の周りには、やはり嫌いな人を思い出させる雰囲気が漂っていました。
ここまでは想定通りです。
次に、事前に話しあった通り、嫌いな人を思い出させる雰囲気を取り去るようにイメージしてもらいました。
想定通りなら、友人のイメージから、嫌いな人の存在によって生じる余計なイメージだけが消えるはずでした。
相談者の方もそれを望んでいました。
ところが、嫌いな人のイメージを消していくと、友人のイメージまでもが薄れてしまったのです。
嫌いな人のイメージを戻すと、友人のイメージも元に戻りました。
更に再び、嫌いな人のイメージを消そうとすると、やっぱり友人のイメージが薄れてしまいました。
そんなことを何回か繰り返しているうちに、相談者の方は、「自分の嫌いな人を友人は好きだということを含めたものが、私の友人という存在なんだ」と気付き、それを自然に受け入れられたのです。
暗示によって一時的に解決した状態を作ることと同じように考えれば、期待される結果は、「友人にまとわりつく嫌いな人を思い出させる雰囲気が消えて、かつてのようにその友人と付き合えるようになる」というものです。
それを目標に催眠療法を始めたのですから、それまでの私の経験と理解によって予測される結果は、「想定したことが実現できる」「想定したことが実現できない」のいずれかしかないはずでした。
繰り返しますが、相談者の方は、嫌いな人の存在によって生じる余計なイメージだけを消すことを望んでいました。
ところが、そのいずれでもない、全く予想していなかったことが起こり、しかも、それが相談者の方の心の中に解決を引き起こしたのです。
とても不思議でした。
「私たちがあれこれ考えなくても、答えは存在しているのかもしれない」と思うしかありませんでした。
なぜ、自分の意思による思考とは全く関係のない答えが導き出されるのかが、どうにも理解できませんでした。
もしかしたら、これはスピリチュアルな現象(霊的現象)なのかもしれないとも思いかけたこともありましたが、それ以上は手も足も出せずに、何年もそのまま放置していました。
2-3 言葉を使わない思考
「1 言葉の現実」を考えていたときに、ふと「思考は言葉によらなければできないのか?」という疑問が浮かびました。
この疑問と「2-2 不思議な現象」で説明した現象とが結びついたとき、「私たちの脳では、言葉によらない思考的な働きがあるのではないだろうか?」という1つの仮説が私の頭に浮かびました。
前節で紹介した催眠療法の例では、「嫌な人の雰囲気を消す」というイメージをインプットすると、言葉を用いない思考によって答えが導き出され、それが「友人のイメージが薄くなる」という形でアウトプットされたと解釈できます。
そして、同じように「嫌いな人の雰囲気を元に戻す」というインプットをすると、その答えが「友人のイメージが濃くなる」という形でアウトプットされたと解釈できます
更に、意識的な思考によって導き出した「雰囲気を消したい」という答えには影響されずに、その状況においての最善の答えが導き出されたのではないかという感じがします。
しかも、インプットと同時にアウトプットされるような、スーパーコンピュータも顔負けの凄い処理速度でです。
このようなことから、実は、私たちの脳は、いつも言葉を使わない思考によって答えを導き出し続けているのかもしれないと思えます。
もし、そうだとしたら、私たちは、せっかく脳が言葉を使わない思考によって精度の高い答えを導き出しているのに、それに気付かず言葉による思考だけに頼って、言葉によって作り出される世界の中だけでつじつまが合うことを「答え」にしてばかりいることになります。
しかし、何かの拍子に、私たちの意識が「脳が、言葉によらない思考によって導き出した答え」に気付くことが時折あって、そんなときに、私たちに突然起こる「気付いた」、「分かった」、「思いついた」という経験になると考えられます。
2-4 言葉を使わない思考を活用する心理療法の例
催眠療法の1つに、コア・トランスフォーメーションという手法があります。
この手法によって起こることも、この「言葉によらない思考が行われている」という考えを裏付けているように思えます。
コア・トランスフォーメーションでは、「催眠状態の中で、自分の中の何らかの対象に質問を投げかけ、そのまま放置し、それが返す答えをただ受け取る」ということをします。意識的な思考はしません。
例えば、「自分が感じている苦しさ」「自分の気になる反応や行動」など様々なものが、質問を投げかける対象となります。
【例】
(1)対象に対して、「あなたは、私のために、何を望んでいるのですか?」といった質問をして、答えが返ってくるのを待つ。
(2)対象から何らかの答えが返ってくるので、「その答えに気付く」という形で、その答えを受け取る。
(3)答えを受け取ったら、更に望むことがあるかどうかを確かめるために、「その答えが示している状態を充分に体験した後、あなたが欲しているもっと重要なことは何ですか?」といった質問をする。
それ以降は(2)~(3)を繰り返します。
このやりとりの中で得られる答えは、言語化する前のイメージ的なものです。
例えば、映像イメージ・声などのイメージ・意味のイメージ・言葉などです。
人によって、どのような形で答えが返ってくるかは異なります。
参考までに、私の場合は、映像として答えが返ってきます。もっと、詳しいことをお知りになりたい場合は、いくつか書籍が出版されていますので読んでみて下さい。
このコア・トランスフォーメーションは、とても不思議な体験なので、以前は、もしかしたらスピリチュアルなものが関係しているのかもしれないと、少し期待していました。
しかし、これも、脳の言葉を使わない思考を活用して答えを導き出す方法だと考えれば説明がつきます。
2-5 動物と人間
思考には、言語思考(言語による思考)と非言語思考(言語を用いない思考)の2種類があると仮定すると、動物と人間の思考について、次のように考えることができます。
■動物は、本能によって活動するのではなく、非言語思考によって活動している
■人間は、非言語思考もしているけれども、それよりも言語思考に支配され、非言語思考には気付かずに活動している
この非言語思考が、私たちがこれまで無意識と呼んできたものの正体ではないかと思います。
もしそうだとすると、自分自身ではコントロールできない印象を与える無意識という言葉は、自分の営みという意味も含む非言語思考と改める方が良いと思います。
オオカバマダラという「渡り」をする蝶がいます。
「渡り」というのは、渡り鳥が季節によって住む土地を変えるためにするのと同じ行動を指します。
この蝶は、出発してから目的地点に到着するまでの1つの渡りを、何世代かの代替わりをしながら行うのだそうです。
このような渡りは、世代交代の地点まで渡りをしてきた記憶が、世代をまたいで別の個体へと引き継がれないと実現できないように思われます。
つまり、世代をまたいで伝わる記憶があるのだろうということです。
また、自分の子供を見ていると、興味を持つポイントや行動や考え方の特徴など、自分の記憶が伝わっているのかもしれないと感じることがたくさんあります。
たぶん、世代をまたいで記憶が伝わるということは、オオカバマダラに限らず、生物に共通する仕組みなのだろうと思います。
そんな世代をまたいで伝えられる記憶にアクセスできるのも、非言語思考なのではないかと想像しています。
そして、遺伝子を介して世代を超えて伝わった記憶と非言語思考を基にした行動や反応が、人間が本能と呼んでいるものの正体ではないかと思います。
このような言語思考と非言語思考の2種類の思考があると考えると、言語が発達していることが、思考能力が高いこととは等価ではないと思えてきます。
2-6 言葉と社会性
言葉は、はじめからこの世の中に存在していたものではありません。
人間が創り出したものです。言語の目的を想像すると、その一番の目的は思考することではなく、他の個体とコミュニケーションをとること、つまり、情報を共有することだと考えることができます。
ですから、まず、共有する意義があることから言語化されたと考えられます。
人間は、この世の中の全てを言語化しているわけではありません。
改めて辺りを見渡すと、言語化されていないたくさんのことを感じるはずです。
人が情報を共有するために必要だと感じたことだけが言語化され、そのような言語だけで説明できるのが、人が生きる「社会」という世界なのです。
物と言葉に関連性を持たせて物の名前とし、同様に、行動・動作・色・形など様々な事柄に名前が付けられ、言葉の並べ方・つなぎ方にも意味を持たせて、文章という意味の塊が成立し現在の言語へと発展してきたのだと思います。
現代の私たちは、そのようにしてできあがった言語で説明できる世界にばかり意識を向けて生きています。
「この世の中は目に見えるものだけで成り立っているわけではない」と言われることがありますが、「この世の中は言語化されたものや言葉で説明できる理屈だけで成り立っているわけではない」とも言えるのです。
このような言葉の成り立ちを考えると、言語を用いた思考だけでは、これまで社会に蓄積されてきた知識以上のことを導き出すのは難しいと考えています。
非言語思考は人間の脳を最大限に活用して真実に近づこうとする思考で、言語思考は社会性を重視する思考だということもできます。
私たちの思考が言語思考に傾倒していることを考えると、「人間は、社会性を重視するために、真実の追究という思考の大部分を放棄した生き物である」といえそうな気がします。
私たちが興味のあることを深く掘り下げて理解しようとしているとき、意識では「その真実を追究している」と思っているところがあります。
しかし、言語思考だけに頼っている限り、意識とは裏腹に、「真実の追究を捨て、社会性を重視する」という思考からは逃れられないのです。
余談
自閉症と呼ばれている状態では、人それぞれに特定の分野において特別な能力を発揮することが多いという話をよく聞きます。
彼らがコミュニケーションが苦手であることを考えると、非言語思考が優位になっているために、非言語思考によって人間本来の思考能力を発揮する人たちである可能性が浮かび上がってきます。
もし、そうだとしたら、私たちが自閉症と呼んでいる人たちが、特別視されずに普通に生活できる社会を作ることが、言語思考が中心になってしまった私たちを、人間本来の生き方へと引き戻すことにもつながるのではないかと感じます。
2-7 自分にとっての本当の答えを得るために
私たちは、知識の集積や勉強によって「理解した」という感覚を味わうことがあります。
しかし、知識の集積や勉強は、言葉を使って行われます。ですから、この「理解した」という感覚は、主に、「自分が知っている知識のつじつまが合っていることを確認した」、又は、「自分が把握している事象を、既知の論理に当てはめることができた」、「自分が受け入れても良いと思える理屈を知った」といった場合がほとんどだと思われます。
そして、そのような知識の蓄積作業が非言語思考と結びついたとき、これまでにはない新たな発見も起こるのだと思います。
心に苦しさを抱えている人の多くは、考えることによってその苦しさを解決しようとします。
しかし、考えることによって心の苦しさを解消できた人は、あまりいないと思います。
これは、実際の調査を行っていませんので確かなことではありませんが、もし、考えることによって解決しようとした人の中で、心の苦しさを解消できた人の割合が低いとしたら、社会に蓄積されている心に関係する情報は、心の苦しさを解消するための役には立たないということになります。
逆に、社会に蓄積された心に影響を及ぼす知識や常識に誤りがあるから、心が苦しくなり、そんな知識や常識の中で心の苦しさを解消しようとするから、更に、心を苦しくしてしまっているとさえ思えます。
「直感が大事」とか「頭を自分の考えばかりで一杯にしてしまわずに、隙間を空けておくことが大事」という話を聞くことがあります。
これは、言語によって構成された世界にだけ通用する言語思考に縛られずに、非言語思考によって導き出された答えをきちんと受けとめるための「祖先からの教え」なのではないかと思えます。
このようなことから、しばらく情報収集をしながら一生懸命に考えても解決できないようなことは、社会に蓄積されている情報が誤っている可能性を疑う必要があります。
ですから、ある程度考えたあとは、考えることを止め、思考を自分の非言語思考に任せて、答えが浮かぶ時まで、意識から外してしまうことが、最も有効な解決方法かもしれないということを覚えておいて下さい。