02 実体と感覚
2-1 理解のきっかけ
私は、はじめ「なぜ、催眠状態では、普通では起こらない『感覚を物質のように扱う』という特殊なことができるのだろう?」と考えていました。
ところが、そのように考え始めると、いきなり行き詰まってしまいます。
考えが深まらないまま長い間放置していたのですが、あるとき「催眠状態は日常生活の中で普通に生じる状態」という催眠状態を考える上での大前提を思い出しました。
そして、「感覚を物質のように扱う」ということも、日常的に起こっている心理現象として考えてみようと思い直したとき、ようやく考えを深める手掛かりがつかめたのです。
2-2 物質に対する感覚
例えば、机の上にガラスコップが置いてあるところを想像してみて下さい。
それを見たとき、普通は「ガラスコップがある」と思うくらいで、それ以上のことを認識している自覚はありません。
しかし、実際には、自分の経験に基づく記憶から、ガラスコップに触ったときの感覚(温度、硬さ、強度などの様々な感触)を呼び起こして、目で見ているガラスコップの映像に重ね合わせているのです。
その証拠に、ガラスコップを手に取るときに、割れるほどの強さでは握りませんし、その表面がツルツルして冷たかったとしても驚くこともありません。
客観的に考えれば、実際に触れるまでは、そのガラスコップに感じている性質は、想像上のものであることは明らかです。
なぜなら、ガラスコップとは空間的な隔たりがあるため直接感じることができないからです。
しかし、私たちは、そのガラスコップを触って初めて分かる感覚を、触る前から感じるのです。
どうして、触れる前からガラスコップを感じられるのでしょうか。
それは、その感触を、記憶を基にして創り出した架空の感覚だと考えれば理解できます。
つまり、私たちは、ガラスコップに感じている感触が「記憶を基にして創り出した架空の感覚」であることに気付かずに、そのガラスコップによって生じていると錯覚しているということです。
以降、このように記憶から再現された感覚によって形作られる現実を、「記憶投影現実」と呼ぶことにします。
これに対して、実体からの直接的な刺激が、感覚器官(視覚・聴覚・臭覚・触覚・味覚など)に作用して生じる感覚によって形作られる現実を、「知覚現実」と呼ぶことにします。
知覚現実と記憶投影現実は、ガラスコップを手に取ってから放すまでの間は一致しています。
しかし、ガラスコップを手放した瞬間から2つの現実が一致するかどうかは分からなくなります。
つまり、「ガラスコップを見て、持って、放す」体験を細かく分析すると、記憶投影現実 -> 知覚現実 -> 記憶投影現実という非連続な現実を体験しているといえます。
普通は、それぞれの現実に大きな食い違いが生じることはありません。
ですから、知覚現実と記憶投影現実を区別して認識することはなく、私たちは、いつも「連続した同じ現実を体験している」と錯覚して過ごしているのです。
これは、次のようなことを考えるとよく理解できます。
見た目はガラスコップだけど、ニセモノのガラスコップ(以降、「ニセコップ」と記述)があるところを想像してみて下さい。
そのニセコップを触るとグニャグニャしていて表面はザラザラしています。
私たちは、目に映ったニセコップの映像をもとに、記憶から関連しそうな情報を引き出して、ニセコップの性質をイメージとして創り出します。
更に、ニセコップの見えていない部分については映像的なイメージも創り出します。
そして、自らが創り出したイメージを、目の前のニセコップそのものであると認識します。
しかし、この時点では、目の前のニセコップのことを分かったつもりになっているだけで、実際のニセコップがどのようなものかは、まだ分かっていないのです。
次に、ニセコップを実際に触ります。
このとき、ニセコップからの実際の感触を知り、記憶投影現実から知覚現実へと抜け出すことになります。
ニセコップに触った瞬間、記憶投影現実と知覚現実とのギャップに驚くことになります。
そして、その体験から得た感覚によって、それまでの記憶投影現実は、新しい記憶投影現実へと修正されます。
そのニセコップを手から放すと、視覚だけが知覚現実を形成し、それ以外は記憶投影現実によって形成される元の状態に戻ります。
そして、実際に触ったときの記憶をもとにしてニセコップの感触が再生され、実体とは関係のない感触を感じるようになるのです。
2-3 私たちの感覚
ここまでの説明から、私たち人間が、実体からの刺激を直接受け取るのはほんの限られた時間だけで、私たちが色々なものに対して感じている感触のほとんどは、記憶投影現実の中に創り出された架空の感触であるということが分かると思います。
これを整理すると次のようになります。
■私たち人間は、色々な感覚器官のいずれかによって存在を把握した実体に対して、足りない情報を記憶によって補い、それらを合成したものを自分にとっての現実としている
つまり、私たちにとっての現実は、知覚現実に記憶投影現実をオーバーラップさせたものなのです。(以降、知覚現実に記憶投影現実をオーバーラップさせてできあがる私たちにとっての現実を、「合成現実(人にとっての現実)」と記述することにします。)
また、このような私たちがものごとを認識するための仕組みには、初めて見たものでも、記憶をもとに類推した感覚をオーバーラップさせようとする働きがあります。
そのようなことを考えると、私たちにとっての現実は、そのほとんどが記憶投影現実によって形成されているといえます。これが、私たちにとっての現実なのです。
逆に、私たちにとっての現実は、知覚現実と記憶投影現実の二重構造になっているといえます。
知覚現実と記憶投影現実には、それぞれの現実を形成するそれぞれの感覚があることは、「2-2 物質に対する感覚」で詳しく説明しました。
ここで、「感覚は何らかの刺激によって生じる」と仮定すると、私たちの感覚は、「知覚現実からの刺激を受けて生じる感覚」と「記憶投影現実からの刺激を受けて生じる感覚」の2つに分類できると考えられます。
2-4 物質以外に感じる感覚
私たちに生じる感覚には、物に対する感覚以外に、ある場面や状況に置かれたときに湧き起こる感覚があります。
例えば、「話しにくさ」「孤独感」「不安感」「安心感」「ワクワクする感じ」「満たされた感じ」「いたたまれない感じ」といった感覚です。
直感的には、このような感覚は、物体から刺激を受けて生じる感覚とは種類が違うように思われます。
しかし、感覚をオーバーラップさせる対象が知覚現実の中に存在しないということを除いたら、私たちに生じる感覚であることに何ら違いはありません。
つまり、物体の性質を補うために記憶投影現実の中で生じる感覚や知覚現実からの刺激を受けて生じる感覚と同じ感覚なのです。
ですから、自分の中から生じる感覚を感じている人は、あたかも実在する何かからの刺激を受けているかのような体験をしていると考えられます。
合成現実(人にとっての現実)は、知覚現実と記憶投影現実に分解でき、自分を刺激する実体は知覚現実には存在しないのですから、記憶投影現実の中に「自分を刺激する実体のようなもの」が創り出されていると推測できます。