心を楽にするために振り返る子育て

03 人にとっての現実

3-1 感覚の投影

スイカを両手で持ち上げるところを想像してみて下さい。

スイカを持ち上げると、その重さを感じます。このとき、私たちは「スイカが重たい」と考えます。

つまり、「重たさ」はスイカ側にあると認識します。物理学的に考えても、スイカには質量があり、その質量と地球の重力との関係で、スイカに重さが生じると理解します。

これを人の感覚を中心にして考え直してみると、全く別の解釈ができるので、それを説明します。

人がスイカを持ち上げて「重たい」と感じているとき、その重さを感じているのはスイカを持ち上げている人であって、スイカではありません。

スイカを持ち上げる様子を見ている人にも、その重さが伝わるようなところはありますが、実際に感じることはできません。

スイカを持ち上げたときに感じる重さは、持ち上げている人にだけ生じる感覚です。

人がスイカを持ち上げている様子を客観的に説明すると次のようになります。

(1)自分はある姿勢を継続している

(2)その姿勢を保つために、体の様々な部分に力が加わっていることを感じている

(3)自分はスイカを持ち上げている状態だと認識している

(4)自分の力加減の感覚は、スイカを支えるために生じていると解釈する

(5)自分の感覚をスイカに投影して、自分の感覚から切り離す

(6)その結果、自分の感覚はスイカ側の性質となり、「スイカの重さ」と認識する

このように「スイカの重さ」と思っていたことは、実際には、自分に生じた感覚を、スイカという自分以外の実体に投影したものなのです。

この解釈は、重さだけでなく、色・形・触った感覚・音などにも当てはめることができます。

つまり、私たちが知覚していることの全てが、自分の感覚を、その感覚の対象と認識する物に投影したものだといえます。

更に、自分の感覚を投影する対象となる「視覚によって確認した実体(知覚現実)」さえも、脳が創り出す立体的なスクリーンのようなものに映し出されたものといえるのです。

ちなみに、真の現実の中に実在するものであっても、人間の感覚器官によって検知できないものは、私たちの中のスクリーンには投影されることはなく、私たちにとっては「存在しないもの」という扱いになります。

3-2 「人にとっての現実」の成り立ち

視覚が機能している前提で、「人にとっての現実(合成現実)」を整理してみます。

合成現実(人にとっての現実)は、視覚から得られる知覚現実の映像を中心にして、そのほかの感覚器官から知覚現実として得た感覚と、記憶投影現実の中に再生された感覚をオーバーラップさせて、情報を補いながら組み立てられています。

視覚からの映像が中心に据えられているのは、対象を直接的・継続的にリアルタイムで観察できる唯一の感覚が視覚だからではないかと想像しています。

臭覚は、離れていても継続的に観察できる可能性のある感覚ですが、その伝わり方によるタイム・ラグが生じますし、人間の臭覚はそれほど発達していません。

聴覚は音が聞こえたときだけ、触覚は触ったときだけしか、実体を確認できません。

目を閉じたとき、最優位になる人間の感覚は聴覚です。

目を閉じて視覚からの情報を遮断すると、合成現実(人にとっての現実)は聴覚から得られる情報を中心に組み立てられるようになり、通常は視覚から得られる映像も記憶投影現実の中に記憶から再現された映像で補われることになります。

このように、普通は知覚現実の中心に据えられる視覚的な情報も、記憶投影現実による補助的な情報としての位置づけになることもあります。

このようなことから、目を閉じると、私たちの周りは、体に触れているもの以外は、記憶投影現実の中に再生されたものばかりになることが分かると思います。

目を開けると、記憶投影現実の中に創り出された映像は、視覚によって感じ取った映像に取って代わられます。

視覚からの刺激は強烈なので、記憶投影現実に再生された映像に打ち勝つからです。

そして、合成現実(人にとっての現実)の中心は、聴覚から元の視覚へと戻ります。

このような知覚現実の中心となる感覚が変化しても、知覚現実にオーバーラップさせる記憶投影現実に生じている感覚はあまり変化しません。

説明が長くなってしまいましたが、私たちは、その存在が確認できた実体を、足りない情報を記憶によって補いながら、「自分にとっての現実(合成現実)」を形成することで、その全体像を把握しているのです。

私たちが知覚現実に記憶投影現実をオーバーラップさせる様子は、例えば、SF映画などで、ロボットが「カメラに写った映像」の中の物体を1つ1つ識別し、データベースから引き出した関連情報を当てはめながら把握していく様子に似ていると思います。

3-3 現実の正体

私たちが現実と思っていることの大部分は、真の現実ではありません。

私たちの感覚器官で感じ取れる情報を、記憶(過去の経験の記憶、解釈、知識や情報など)で補った擬似的な現実です。

また、知覚現実の中で、その実体の性質と思っていることも、厳密には実体の性質ではありません。

自分に生じた感覚を、その対象と認識したものに投影しているといえます。

これが、「人にとっての現実(合成現実)」の正体です。

※これに関連して「言葉の現実」という興味深いテーマがあります。本文の論旨をあやふやにしてしまいそうなので、第6部で説明します。

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