ゲシュタルト療法
「今、ここ」にいる『純粋な本当の自分』に気づくことが大切であると考えます。
人は、「~すべきだ」とか「~すべきではない」など意味づけされた一種の妄想の世界に無意識のうちにはまり込んでいます。
しかし、それは社会や親のしつけや自分の成功体験・失敗体験などによって規定されたもので、自分の本当の気持ちは疎かにされていることが多く、それに気づいていないから、本当の気持ちが満たされることもありません。
そこで、その時々に、「今、ここ」での自分の本当の気持ちに気づき、その気持ちを「今、ここ」で完結させることができるようになることを目指します。
また、過去に完結させることができなかった気持ちも、過ぎてしまったから取り返しがつかないとは考えず、それに気づいた時に完結させることができると考えています。
例えば、自転車に乗ることを考えてみます。自転車に乗れなかったときは、自転車として全体を認識するというよりは、ペダルやサドルやハンドルなどの個々を意識する必要がありました。
そして、それらをどのように扱うかを、ずっと考えなければなりませんでした。(右足を踏み込みながら、左足を前に持っていって、ハンドルはまっすぐになるように保ちながら・・・)
ところが自転車に乗れるようになると、そんな細かいことは意識する必要がなくなり、「自転車」としてその全体を認識し、その行為も「自転車に乗る」という単純な行為という認識になります。
でも、乗り心地が悪い。そこで、乗り方をチェックしてみると、右手でハンドルの左側、左手でハンドルの右側をもっていたことに気がついたりします。(実際は、そんなことありませんけど・・・)
そして、右手と左手を持ち替えたら、楽に自転車に乗れるようになる。普段の生活において、私たちは主に五感を通じて状況を認識し、それを解釈して反応しています。
しかし、それら五感からの情報は全体として統合され、反応に結びつきます。
その反応は、あまりにも当たり前のことになってしまっています。
でも、その反応は
- 本当の自分を表現している?
- 「自分」という自転車をうまく乗りこなせているの?
- ハンドルをアベコベに持っていない?!
ゲシュタルト療法では、この統合されてしまっている「刺激→反応」を見直して、自転車に乗りにくい状態(自分らしくない反応)から脱して、楽に自転車に乗れる(自分らしい反応)ようになることを目指しているようです。
その第一歩として、次のことを大切にします
・ 「今ここで、自分は何に気づいているの?」
・ 「何を感じているの?」
うまい例かどうかわかりませんが、例えば、「自分が並んでいる列の前に、割り込む人を見たら腹が立つ」。割り込むところに気がつかなかったら腹は立ちません。
でも、なぜ割り込まれると腹がたつのでしょうか。
「割り込む」ということと「腹が立つ」ということは何の必然性もないのです。
そこには、怒りではなく、「割り込んで欲しくない」という純粋な気持ちがあるだけなのです。
そして、その気持ちが伝わらないことに苛立っているのです。
つまり、その怒りは相手に対してではなく、自分の中での感情なのです。次に、その気持ちを大切に扱おうとします。
その気持ちを無視すれば、それは心のどこかに残ってしまい、それが積もると心全体がうまく機能しにくくなると考えるからです。
この場合は、相手にそのことを伝えることが、大切にすることかもしれません。
もしくは、後で、友人に、「割り込まれて悔しかった・・・」と話すことなのかもしれません。
ゲシュタルト療法の究極は、「その時々の自分の気持ちを、その時々に気づき、その時々に済ませる」というとこにあるのかもしれません。
「今ここで」と「気づく」、この2つが重要なキーワードで、過去でも未来でもなく今この瞬間という人生を生きていくことの入り口となるのです。