09. 本当の解決について改めて考えてみる
しばらく取り組めば解決できる課題は問題ありませんが、もし、それが一生懸命に取り組んでも、いつまでも解決しない場合は、まず、意識している問題を解決しようとすることを止める勇気を持って下さい。
また、悩みを解決しようと目標や課題を設定する時には、行動に移す前に、まず、『それが解決可能な課題であるか』というポイントをチェックして下さい。
- 具体的な行動をイメージできる課題であること。
- 課題を達成したことを、何をもって認識するのかが明確であること。
- 課題解決までの想定期間が短期間であること(長くても数日)
コンプレックスのようなものの解決は、悩みを解決するための目標として設定すべきではありません。
ここで、自分が悩みや心の苦しさの解決のために設定している課題や目標について、もう一度じっくりと考えてみて下さい。
心の苦しさに向き合おうとするとき、
- その原因探しは過去に
- 解決へ向けての仮説は未来に
意識が向いてしまいがちです。
そして、いずれの場合も、
- 今このときに、自分が望んでいること
から、意識が外れがちになるので注意が必要です。
心が苦しいと感じているときは、
- 自分の望みのためにたった今できることを諦めていたり
- 自分の望みのためにたった今できることをするのにすごくパワーが必要になってしまっていたり
するのです。
はじめは、勇気を出してたった今できることをやっても、慣れない感じを伴うかもしれませんが、それは、次第に薄れていきます。
そして、たった今できること・たった今望んでいることできることをきちんと拾い集めることができている状態になれたとき、その状態のことを幸せと呼ぶのだろうと思います。
- 苦しみからなかなか解放されない時は、まず、その『原因探し』や『解決方法探し』を止めることが大切です。
- まず、『今の自分の望み』に意識を向けようとして下さい。
【補足】 09-01. 悩みから抜け出すために知っておくべきこと
私たち現代人は、課題を設定し、それをクリアしながら改善や向上を繰り返していくという思考を当然のように受け入れています。
しかし、ここに悩みの解決を阻む落とし穴があります。
自分の本当の望みを理解せずに、課題を設定し解決を急いでしまうと次のような状態に陥ります。
家の前の道が陥没していて車が通れないとき、自分がその道っを車で通るために、車の運転免許を持っていないことも忘れて、一生懸命に道路の舗装工事するようなことです。
車の運転免許は持っていませんから、道路の舗装工事が終わっても、車でその道を走れるようにはなりません。
それでも意識が変わらずに、ワンランク上の舗装をすれば解決するかもしれないと考えてしまえば、その道路を掘り起こして、再び、舗装工事をはじめてしまいます。
このように、本当のところに意識を向けなければ、もともと問題ではないところを疑い続けることになります。
つまり、
- 自分
- 他人
- 自分が置かれている環境
などを責め、本来は自分に安心を与えてくれるものまで否定せざるを得なくなり、苦しさはますます大きくなってしまいます。
心の苦しさは、現在の自分の心の中にあります。
そして、心の苦しさの原因は、過去にあります。
現代の人たちの大部分は、この心の苦しさの原因の本質を誤解しています。
一般的に、
- 心に苦しさを生じさせた事象を直接の原因
と考えがちです。
しかし、そこにあるのは
- 現在、目の前に存在している悩みの理由に気付けなくなってしまった事情
- 現在、自分が感じている心の苦しさを解決する方法を分からなくしてしまった事情
なのです。
つまり、心の苦しさの解決は、
- 今、目の前にある心の苦しさの理由を正しく理解しようとし
- 正しく理解した目の前にある理由を解決しようと取り組むこと
によって始まるのです。
そのために、もっとも大切なこと、それは、
- 心を回復する方法を知り
- その方法をきちんと理解し
- それを実践できるようになること
なのです。
- カウンセラーが理解したこころ :
https://www.library.pureheart-counseling.com/heart-by-counselor/
- そうかそうかムーブメント :
https://www.pureheart-counseling.com/sokasoka
【補足】 09-02. 誤った解決努力によって陥りがちな状態
これから挙げる状態に陥っていると感じる場合は、これまで続けてきた解決への努力はひとまず休憩して、自分の本当の気持ちに意識を向けようとすることが大切です。
9-2-1.新しいことを初めても続かない
ただ単純に、『新しいものが好き』といった場合は問題がないことは多いです。 しかし、
- 新しいことを始めても、3日坊主的にそれを続けることが出来ない
というように、はじめてはすぐにやめてしまうといったことを繰り返してしまう場合は、注意が必要です。 このような時にはじめてしまうことは、
である可能性が非常に高いのです。 もし、そうだとしたら、「何かをやっても続かない」という理解は誤りで、
と理解する方が正しいのです。 このような状態の時は、
- 『何もやりたいと思うことがない』ということを受け入れられず、漠然とした『何かをしなければならない』という感覚に駆り立てられてられてしまっていることが考えられます。
- なぜ、やりたいことがないとダメだと思うのですか?
- なぜ、楽しくないとダメだと思うのですか?
これらも、心の苦しみから抜け出そうと立てた、ただの仮説に過ぎません。
9-2-2.コンプレックスについて
心が苦しいと感じているとき、
- コンプレックスがあるから苦しい
とコンプレックスを苦しさの理由と考えてしまいがちですが、本当は、
- コンプレックスがあることで、心は救われている
と理解した方が正しいところがあります。
また、コンプレックスには、決して解決されてはならないという役割さえあるのです。
普通、コンプレックスは、
- それを解決すれば、きっと、心の苦しみから開放されるだろう
と自分自身が納得できることを選び出します。
- 容姿がもっと良ければ友達が出来て楽しく過ごせるのに・・・
- 話すのがうまかったら人前で話すのを怖がらなくても済むのに・・・
- もっと、お金があれば、幸せになれるのに・・・
- もっと良い学校に行っていれば、良い仕事に就けるのに・・・
これらの例からもお分かり頂けると思いますが、コンプレックスは、心の苦しみを解決するために立てた仮説なのです。
つまり、
というのが正しい理解なのです。
心が苦しいと感じているのに、その原因がわからないことは、普通に考えれば『解決しない』ということを意味します。
自分がそのような状態に陥ってしまっていると考えると、もともとの苦しさに、更なる苦しみが付け加わってしまいます。
しかし、コンプレックスを持てば、「それを解決すれば、きっと苦しみから開放されるだろう」と希望をもつことができるので、今の心の苦しみの中でも、心のある部分が救われるのです。
はじめに、 コンプレックスは決して解決されてはならないという役割を持つ と書いたのは、本当の解決への道筋を理解するまでは、心が救われるために、コンプレックスは存在し続ける必要があるということです。
ですから、コンプレックスに意識が向いてしまっているとき、心の苦しさを本当に解決したいと思うのなら、
- 心に理由の分からない苦しみがあることを受け入れ
- その苦しみを解決するための正しい道筋を理解し
- 自分の心としっかり向き合う
ことです。
そうすれば、心の苦しさの解消に伴って、コンプレックスは自然に薄れて、最後には気にならない状態になるのです。
9-2-3.言うことがコロコロ変わると感じて理解できない
一概には言えませんが、「あの人は、毎回言っていることが違う」といった不満を感じてしまうとき、
- 『ある基準』が自分の中に存在している
ということを疑ってみる必要があります。
(1)自分の課題の可能性について
相手が決めていることが毎回違うと感じる場合、自分自身の中にある何らかのこだわりによって、それ以外の部分を客観的に把握する事が出来なくなっている可能性が高いです。
そのように感じるときには、まず、
- 相手が、前回に把握していたことは何か?
- 相手が、今回に把握していることは何か?
ということを詳しく知ろうとしてみて下さい。
そして、それらに違いがあれば、その違いによって、その相手がなぜ判断が変えているのかを、理解しようとしてみて下さい。
そうすることによって、今まで気付かなかったことに気づき、理解できるようになることを手伝ってくれるはずです。
その気づきと理解は、自分の中にある自分を縛りつけようとする『ある基準』から、自分自身を解放することにもつながるのです。
(2)相手の課題の可能性について
(1)での作業でも、相手を理解することが出来なかった場合は、相手の人に改めた方が良いところがある可能性は高いです。
しかし、相手の人が、それに気づき、そして、「改めたい」と願わない限りは、相手の人が変わることを期待しても無駄なところがあります。
そんなときは、そうならざるを得ない相手の背景を理解しようとすることは、あなたが相手の言動にそれほどこだわらなくても済むようになることを、きっと手伝ってくれると思います。
9-2-4.オール・オア・ナッシング
自分と相手の感情・感覚・考えなどに差異があったとき、その解決方法として、『どちらか一方を選択する』というコミュニケーションに長くさらされていると、自分の中で感情・感覚・考えに混乱が生じてしまいます。
自分の感情・感覚・考えが取り上げられずに否定されれば、不満な気持ちになってしまいます。
更に、その不満を表明しても、父親や母親の強固な姿勢によって、それが押さえつけられてしまうと、更に不満は大きくなり、つらい気持ちになってしまいます。
このような環境に置かれているとき、その家庭の中で安心して過ごすためには、自分自身の感情や感覚は全く当てにならなくなってしまうのです。
『邪魔になってしまう』とさえ言えるところがあるのです。
そんな雰囲気の中で、やがて、自分の感覚・感情を頼りに行動するという当たり前のことができなってしまいます。
こうして、相手の基準を自分の中に取り入れて、それを規則として守ることで、家庭に適応していかざるを得なくなるのです。
気分によって反応がコロコロと変わる相手と過ごす場合も、自分の行動のよりどころとなる規則が必要となってきます。
つまり、オール・オア・ナッシングとは、
ということができるのです。
この種の感覚があると、人と長く時間を共に過ごそうとする状況になったとき、次のような傾向が現れ易くなります。
- 過去の家庭での基準を、違う相手とのコミュニケーションにも当てはめようとする
- 相手の反応によって、自分の行動の基準を作ろうとする
- 意見等の食い違いが発生した時に、規則を作ることで解決しようとする
- 過去の取り決めに意識が向いて、時々に異なる様々な状況に気付きにくくなる
- 取り決めを守る事を、相手にも強く要求する
- 規則が曖昧だと、どのように行動して良いか分からなくなるため、不安定になる
そして、これらの傾向から、
- 「言った/言わない」
- 「前はこうだったのに、今度は違う」
- 「あなたは、言うことがいつも違う」
といった議論に陥り易いようです。
繰り返しになりますが、これは自分の感覚や感情が当てにならないと錯覚してしまったために陥ってしまった状態です。
ですから、そこから抜け出すためには、自分の感情や感覚を当てにしても良いということを思い出していけば良いのです。
こんなときは、形容詞や副詞の使い方を工夫するのも、そんなことを助けてくれます。
誰かが使った形容詞や副詞を使うのではなく、自らの中からわき上がる感覚を頼りに、形容詞や副詞を自分で割り当てるように意識して下さい。
また、あれこれ考える前の、自分の直感を大切にすることも、自分の感覚を大切にすることに繋がります。
洗脳という言葉があります。
強制的に監禁され洗脳されるような場合は別ですが、自らそのような集団を求めてしまうことがあるのは、規則が存在しないことに感じ不安定さから逃れたくなるからなのだと思います。
つまり、そのような団体に洗脳される前に、既に家庭の中で洗脳される準備は整ってしまっていると、私には思えるのです。
9-2-5.話が合わない
本来、「自分が興味がない」と感じているときは、興味がなくても何ら問題はありません。
にも拘らず、「興味がない」ということが、悩みにつながってしまうことがあります。
これは、「人は何かに興味を持たなければならない」と考えて、興味が持てないことを問題としてしまうから、興味がもてない自分を責めたり、「くだらない話をする人たちだ」と相手を責めたりしている状態です。
このような時は、
- もし、興味がもてる人間になれたら、何が解決すると考えているのだろう?
と、自分の気持ちを見つめ直すことが大切です。
「興味のある話」に意識が向いてしまっていますが、別に、『興味のある話』とお友達になりたいと願っているわけではないと思います。
- 意識している人と仲良くなりたいけど、「自分が思うようには仲良くなっていない」と感じて困っている
ということなのです。
つまり、興味があるのは、話の内容ではなく、その話をしている相手の方だということです。
そして、願っているのは、興味のある相手と心地良い時間を共有することなのです。
9-2-6.自分が無い
悩み込んでいるとき、自分が無いと感じてしまうことがあります。
「自分がここに存在している」ということは、紛れもない事実であるにも関わらず「自分が無い」と感じてしまうのは、なぜでしょう?
それを理解するヒントは、その人がネガティブと考えている感情への対処の仕方に隠されています。
例えば、「学校に行きたくないと感じるのは、自分の心が弱いからだ」と考えてしまうとします。
「自分が学校に行きたくない」と感じているのですから、誰が何と言おうと、それは自分にとって一番確かなことです。
しかし、現代社会においては、「心が弱いから行きたくないと感じるんだ」と、自他共にその気持ちを覆い隠そうとする傾向があります。
そこに「学校に行きたくない」と感じる自分が確かに存在しているのに、その気持ちを否定してしまうと、あるものを無いことにしてしまうのですから、「自分が無い」という錯覚に陥ってしまうのは当然のことなのです。
このような意識でいると、ネガティブな感情に直面したときは、例えば、「自分は強くなるんだ」と決意することで、解決を図ろうとしたりします。
もちろん、そのような決意が新しい経験につながって解決してしまえば、その決断は正しかったと言えます。
しかし、多くの場合、解決につながることはなく、自分自身の本当の気持ちにフタをしてしまうことになり、
- 自分の気持ちのないところで行動する
- 自分の気持ちのないところで人と会話する
といったことになります。
そして、次第に、
- 自分らしく生きられないような不自由さが大きくなったり
- 自分にまとわりついた疎外感や孤独感に苦しむようになったり
というような状況に陥るようになります。
ここではネガティブな感情を中心に説明しましたが、嬉しい・楽しいなどのポジティブな感情を否定しても、同様の状態に陥ってしまうことになります。
9-2-7.「人に厳しく、自分に甘い」はウソ
「人に厳しく自分に甘い」というのはウソです。
- 人は、自分に厳しい事は、他人にも厳しい
- また、自分に甘い事は、他人にも甘い
ただ、人それぞれ意識の向いている方向が違います。
例えば、『上下関係に厳しい人』と『整理整頓に厳しい人』が共に過ごすと、お互いに相手を「あの人は、人に厳しく自分に甘い」という錯覚に陥ってしまうところがあります。
9-2-8.自分はつまらない人間
自分が嬉しい時に、一緒に喜んでもらい足りなかったことによって生じる感覚ではないかと考えています。
自分自身の望みに従って行動し、そして、自分が期待していた結果を得ることができたとき、人は嬉しい気持ちで心が満たされます。
しかし、自分のとって大切な人が、それを一緒に喜んでくれなかったら、はじめに感じていた嬉しい気持ちは萎えてしまいます。
そんな『嬉しい気持ちを萎えさせられる』経験を繰り返す中で、「自分の嬉しいことは、喜んでもらえない」というような孤独な雰囲気につつまれていくのだと思います。
そして、「自分の嬉しいことを話しても仕方がない」という思いが、自分自身が嬉しく感じるだろう行動をも制御する方向に働いてしまうようになるのだと考えています。
【補足】 09-03. 人の心の中に出来てしまう『ある基準』について
9-3-1.『ある基準』とは
「父親(母親)のようになりたくない」と意識して頑張っているのに、気が付いたら、父親(母親)のようになっていたというような話を一度は耳にしたことがあると思います。
普通に考えれば、
- そうならないように努力しているのだから、そうなるはずはない
ということになります。
しかし、実際に、そうなってしまいやすいところがあるのです。
これには、自分の心の中にある『ある基準』が関係していると考えています。
『ある基準』と書くと、特定の問題となる基準があると思われるかもしれませんが、そうではなく、個人ごとに異なる不特定の基準です。
この『基準』ということについて、次の例に説明していきます。
日常生活の中で、「食事中のテレビ」というテーマで議論をすると、「テレビを見る派」と「テレビを見ない派」に別れて対立してしまったり、どちらか一方を結論とするための話し合いになってしまうことがあります。
これは、「食事中のテレビ」という基準を設定したことによって、分割された事象に意識が向いてしまっている状態です。
「食事中のテレビ」に関連した基準を持たない人たちに、「食事中にテレビを見ても良いと思う?」と問うと、恐らく、「どちらでも構わない」と答えると思います。
また、その人の食事中の様子を観察してみると、「テレビを見たい時は見ているし、見る必要の無いときは見ていない」といった行動をしているのではないでしょうか。
某かの基準を持った人には、基準を持たない人の行動は、『首尾一貫しない理解しがたい行動』のように感じられるかもしれませんが、基準を持たない人は、その時々に把握した気持ちや状況に臨機応変に適応しながら行動しているだけなのです。
9-3-2.反面教師
何かを分け隔てる基準を持ってしまっていると、本人は意識していなくても、『そのどちらか一方を選択する』ということに意識が集中してしまうため、その時々の状況(条件や自分・相手の気持ち)の違いに気付き難くなってしまいます。
その結果、揺れ動く自由な気持ちを抑圧してまでも、基準を優先させて、相手や自分自身を不自由な感覚に追い込んでしまいます。
もともと『基準』には「何かを制限する」という目的がありますので、これは当然陥ってしまう状況です。
しかし、そんな事態に自分が陥っているということに気づけずに、心の中にある基準は、その矛先を批判という形で他人へ向かわせがちになります。
そして、同時に、自分自身の心も規制してしまっているのです。
このことに気づかなければ、この状況を脱出することはできません。
- 人を傷つけたくない
- 人に優しくしたい
- 相手の気持ちを大切にしたい
- 人を責めたくない
- 相手の意見をしっかり聞きたい
『生き易さ』とは、様々な状況の違いに臨機応変に対応できることによって得られる感覚だと考えています。
ですから、もし、『生き難さ』のような感覚を感じているとしたら、
- 自分の中にある様々な基準に気づき
- その基準から自由になっていく
必要があるのです。
もし、自分の中にそんな基準があることに気付いた時は、
が大切です。
それは、自分自身の本当の気持ちを理解し、そこから解放されることを助けてくれるはずです。
このような『基準』が引き継がれてしまうと考えてみると、
- 「こんな人にはなりたくない」と、必死にならないように頑張っていたはずなのに、そんな人になってしまうことがある
ということも理解することができます。
そのことについて説明します。
自分の中に出来てしまった『基準』は、自分の行動のルールとして働きます。
例えば、「優しくしたい」というスローガンを例に説明してみます。
人の心には波があるのは普通のことで、優しくできるときもあれば、優しく出来ない時もあるものです。
ところが、「優しくしたい」という思いが強すぎると、自分の心の波を無視して、自分が考える優しさに、自分を統制しようとします。
それは、自分の気持ちを抑圧する力として働くので、その抑圧によるストレスと常に戦っている状態を作ってしまいます。
そんなストレス・フルな状態になっても、尚、自分が考える『優しさの形』を演じようと努力してしまうのです。
そんな時、他の誰かが、『自分が考えた優しさの形』に沿わない行動をしたとき、これまで溜めてきたストレスが爆発させながら「(私はこんなに我慢して優しくしてあげているのに、)どうしてあなたは優しくできないの!」と、「優しくしたい」というスローガンとは裏腹に、相手を責めてしまうことになります。
また、『自分が考えた優しさの形』を他人に与えるためにしたことを、相手がありがたがらない時に、「私はこんなに優しくしてあげているのに、どうしてあなたはありがたがらないの!」と、やはり、相手を責めてしまうことになるのです。
9-3-3.『ある基準』の正しい対処方法
反面教師的な学び方を身に付けてしまっていると、自分が「嫌な思いをさせられた」と感じたとき、
- 「自分にこんな思いをさせた」と考える相手を反面教師
- 「嫌な思いのポイントと考えたこと」を犯してはならない掟
と認識するところがあります。
しかし、相手を『反面教師』として結論付ける前に、「相手は、嫌な思いをさせようとして、そうしているのか?」と考えてみることが大切です。
それを確認するために、相手に釈明のチャンスを与えてあげる必要があります。
そして、あなたが相手に釈明の機会を与えたときに、相手の釈明の細かなことを気にするのではなく、釈明したという事実から、相手には悪意は無かったということを理解することが大切です。
相手に悪意がないことが確認できたのに、自分自身がそのことへの執着から離れられない時、反面教師的な対処を身につけてしまっている恐れがります。
反面教師を意識した対処法を身につけてしまっていると気づいたときは、次のように認識してみてください。
- 反面教師を認識したら、それは自分の中にある掟に気づくチャンスだと認識する
- 自分自身を、その掟から開放してあげようと取り組む
その為には、反面教師としようと感じたときの、自分の気持ちをしっかりと見つめてみることが大切です。
まず、
と考えてみてください。(感じてみてください。)
そして、
- 今の自分は、誰に、どうして欲しいのだろう?
- 今の自分は、誰に、どうしてもらえれば、安らかな気持ちを取り戻せるのだろう?
と考えてみてください。
反面教師的な解決を求める思考に陥っているときは、おそらく、これを考えることはとても難しいことだと思います。
そんな時は、子供の頃の自分を思い出してみます。
- 子供の頃の自分がつらくなったとき、誰にどのようにしてもらいたかったのだろうか?
- それを得ることができなくて感じた気持ちはどんな気持ちだっただろうか?
このことを考えると、
- 自分がつらい気持ちのときに、どうして欲しかったのかということ
- それを誰にしてもらいたかったのかということ
- それをしてもらうことを諦めざるを得なかった事情
などを理解することにつながります。
そして、それは、
- その時々に感じるネガティブな感情に気づき、癒せるようになること
につながり、自分の心を癒せるようになることは、
- 個々の出来事に執着する傾向から開放されること
を手伝ってくれるはずです。