03. 悩みから必ず解放されると信じる
悩みの原因は、『我々の人生の中で、それぞれの人の記憶に刻み込まれていった世界観』にあります。
想像するしかありませんが、もし、他の人があなたと全く同じ経験を積み重ねていったとすると、恐らく、今のあなたと、ほぼ同じような状態に陥ってしまうだろうと考えています。
つまり、「私の心」「他の人の心」というような『心』の違いではなく、この経験に基づく世界観の違いによって、誰とも変わりの無いごく普通の心が苦しめられているのです。
また、「心が健康であるからこそ、苦しい時に苦しいと感じることが出来ている」ということさえ出来るのです。
ですから、『心』の問題を解決するのではなく、『世界観』という記憶を調整しさえすれば、悩みから解放されます。
- 誰の心も、問題など無いごく普通の心です。
- 心の苦しみは、『心の問題』ではなく『世界観』という記憶によって引き起こされます。
- 記憶を調整すれば、必ず、心の苦しさから解放されます。
【補足】 03-01. 世界観について
3-1-1.世界観とは
人が『今この時』をどのように生きているかというと、
と表現することができます。 表現を変えると、
ということです。
例えば、お店の商品が欲しいとき、普通は、「お店の商品は、お金を支払うことで自分のものにすることが出来る」という社会のルールに則って行動します。
もし、そのルールを知らなかったら、どうしたら良いか分からず行動出来なかったり、お金を払わずに商品を自分のものにしてしまって、本人には悪意が無くても、周りの人から「反社会的な行為だ」と非難されたりする状態に陥ったりします。
この自分が体系付けた理解が作り出す感覚(雰囲気)が『世界観』です。
3-1-2.世界観に差が生じる部分・・・『人間観』
一般的には、世界観は誰にとっても共通だと思われがちなところがあります。
もちろん、学問や現代社会の常識や法律のように、共通に認識できる部分が多いから、私たちは社会の中で大きく混乱せずに暮らせているのですが、人によって様々な違いが生じている部分も存在します。
そのほとんどは、それぞれの人が経験した人間関係の記憶の違いによって生じ、この違いの部分が、楽しい人生や苦しい人生といった人生に対する感じ方の違いとなって表れると考えています。
この違いの部分を『人間観』として表現することにします。
他の人と同じと思える状況でも、その人の人間観の違いによって、気持ちの差異が生じるのです。
3-1-3.世界観の構造と価値観
3-1-3-1.世界観の構造
世界観は、次の部分から構成されると考えています。
- 客観(社会的共通認識と誰が観察しても同様な認識となること)
- 価値観(感情や感覚を伴った客観)
- 主観(感情)
(客観の背景には、別の次元で『真実』というものが関わってくるのですが、話がややこしくなるのでそこは除外して考えていきます。)
客観は、学問として体系付けられている事を勉強したり、様々な情報を知識として蓄えながら、自分自身の努力だけでも比較的容易に修正・補強されていきます。
また、取り入れる情報量によって差異は生じるものの、「悩み込まない人生」について考える上では、それほど重要ではありません。
しかし、価値観は、コミュニケーション以外で修正されることは難しく、また、主観の混乱はコミュニケーションによって引き起こされるので、その修復にも、コミュニケーションは不可欠なのです。
3-1-3-2.価値観について
客観と感情を結びつけるのは経験です。
人は様々な経験を通して、何かを感じ、そして、それを感じた場面や状況と、その時に生じた感情や感覚を結び付けて、価値観として記憶していきます。
少し哲学っぽくなってしまいますが、この世の中の色々なことは、どのようにでも理解できることばかりで、理解しようとせず放っておけば、実は区切りの無い一つのことだという面があります。
そんな中から、私たちは自分が意識したことや、他人から意識させられたことを切り取り、そこに意味付けをしながら生きているのです。
例えば、「人は空を飛べないんだよねぇ~」と誰かが考え込んでいても、「そんなこと気にしたことも無かった!」反応するような感じです。
「空を飛ぶ」ということを切り取って意識しなければ気にもならない、つまり、「飛ぶ」ということを意識するから、「飛べない」ということが問題になってしまうのです。
もともとひとつのことを人々が共通に認識できるように、色々なことに分割して名前が付けられていきますが、そのように付けられた名前自体に心が反応することはありません。
しかし、我々は、色々な経験をし、色々な自分自身の感情を体験し、その感情として自分自身が認識した事象が結びついたものを、自分自身にとっての価値観として蓄積していきます。
これが、自分自身が価値観を生み出す流れです。
例えば、鳩を見ても、それが鳩というだけで、それ以上の意味を持ちません。
しかし、過去に、鳩に大きな糞をかけられたような経験があると、「鳩は嫌い!」というように、自分にとっての意味をもつような感じです。
これとは別に、外から与えられる価値観もあります。
例えば、「男は、こんなことくらいで泣くものではない!」といった感じに、本来は泣こうが泣くまいが自由なはずなのに、親や他の誰かから聞かされたことを、自分が望む・望まないとは無関係に信じてしまっていることです。
価値観から客観の部分と自分の感情の部分、或いは、2次的感情の部分を分離していくことが出来れば、その価値観に縛られることなく、その時々の自分の感情や感覚に自分の心を任せることが出来るようになるのです。
3-1-3-3.主観の混乱について
例えば、テストで100点をとって大喜びしていたら、親から「そんなテストで100点取ったくらいで調子に乗るな!」と酷く怒られてしまったところを想像してみてください。
自分にとって嬉しいという感情は、その次に起こった出来事によって打ち消されて、辛い気持ちになってしまいます。
そして、100点を取ったということが、自分にとって良いことだったのか悪い事だったのかが分からなくなってしまいます。
このような経験を繰り返しているうちに、100点をとっても嬉しくないと錯覚するようになってしうのです。
このとき、1次的感情は「嬉しい」というもともとの感情で、2次的感情は親に怒られることによって感じた「辛い」という感情です。
主観の中の2次的感情に気付き、それを排除していく事が出来れば、本来の感情が自由を取り戻していく、つまり、自分にとって嬉しいことを嬉しいと思えるようになっていけるのです。
3-1-4.規則を作りながら世界を理解していこうとしてしまうこと
これは、自分の感情や感覚を曖昧にしてしまっていることで、自分にとっての価値観が定まらないときに取られる対処方法です。
不自由さを感じる生き方として代表的なものに、規則を見つけたり、作り出したりして、世界に適応していこうとするものがあります。
これは、自分の感情・感覚などが当てにならないという錯覚によって陥ってしまうことです。
自分の感情や感覚が確かでないと錯覚してしまうと、何を頼りに行動したら良いのか分からなくなってしまいます。
そこで、
- 行動するにあたって守るべきルールを発見し
- それを守ることで環境に適応するしかない
というように無意識のところで感じてしまうのです。
このような対処を身につけてしまうと、
- 辛い気持ちになった時には、決まりを作る
ということを繰り返してしまうので、一般的に『根に持つ』と呼ばれる状態に陥り易くなります。
この状態に陥ってしまうと、自分が感じたり考えたりする度に、誰に何を言われる訳でもないのに、自動的に「得体の知れない何か」に否定されているように感じてしまうことがあります。
その自己否定感が生きる苦しさにつながってしまうのです。
また、規則があいまいな場面に身を置くと、これまで頼りにしていた規則という行動の基準が無くなってしまうわけですから、自分自身が無いと感じるような不安定な状態となり、苦しさを感じることになってしまいます。
そこでも、自ら規則を作り出すことで、自分が適応できる環境を作り出していこうとしてしまうのです。
しかし、この規則は、本人にとっては、環境を調和させるために作り出すものなので、回りの人にもこの規則を守ることを求めるようになります。
もともと、その規則は本人が望んでいたものではありません。
つまり、本人もその回りの人も望まないことで、本人も回りの人みんなが縛られて、心のまま(良い意味で)に過ごすことが出来なくなってしまうのです。
また、調和によって安定するのではなく、決まりによって、自分を抑えることで調和しようとするので、一人きりになってクールダウンする時間が必要になることも多くなるところがあります。
余談ですが・・・
もともと世界はあいまいなものなのですから、細かな規則を決めながら過ごそうとすると、回りとの軋轢が生じ、新たな苦しみが加わってしまうことになります。
そこで、既に規則が定められた社会や集団に身を寄せるという手っ取り早い方法を選ぶこともあります。
そんな状態を、私達は「それらの社会や集団によって洗脳された」と理解することが多いようですが、もしかしたら、「洗脳される前に、家庭の中でその基盤を作ってしまっているかもしれない」ということを疑ってみることが必要です。
もう1つ余談ですが・・・
規則によって世界を区切りながら適用しようとすることが多いと思いますが、自分を区切る事で適応しようとする方法もあり、それが多重人格と呼ばれている状態なのだろうと考えています。
3-1-5.「自分と他人は同じと思うこと/自分と他人は違うと思うこと」の認識の混乱
(1)同じと思うこと
このとき、『同じ』と思っていることの対象は、『世界観』を指していることが多いです。
同じと思うと、他人が楽しそうにしていて、自分が苦しいと感じていたら、最も曖昧な部分、つまり、『心』に原因を求めるしかなくなってしまうことは理解できます。
(2)自分と他人は違うと思うこと
このとき、『違う』と思っていることは、『心』を指していることが多いです。
同じと思うと、自分が正しいと思っているときは、他人を責めてしまいがちになったり、他人が正しいと思っているときは、自分を責めてしまいがちになるのは理解できます。
- 全ての人の心は、問題など存在しない大切な心(同じ)
- それぞれの人がそれぞれの場面で何を感じるかの差は、これまで経験してきた背景によって生じる(違う)
【補足】 03-02. 悩みについて
3-2-1.心の苦しみは記憶の問題
前にも述べましたが、世界観や人間観はただの記憶に過ぎません。
ですから、ここで、まず、次の事を理解して下さい。
苦しみの原因は『記憶』にあるのですから、もう、自分の心にその原因を求める必要はないのです。
今この時から、『もう、苦し紛れに、心の苦しみの原因を心に求めたりはしない』と、自分自身に誓って下さい。
私は、「心の本質が出来損なっている」などということはありえないと信じています。
人の心は等しく大切な心なのです。
3-2-2.悩みと課題
何かに取り組んで、それを解決ができた場合は、「悩んだ」というよりは、「課題を解決する為にあれこれ考えた」ということになり、問題はありません。 このコンテンツで取り上げる悩みとは、
- 解決しようと立ち向かっても、いつまでも解決しない
- 解決しそうにないから立ち向かえない
という状態です。
解決が予感できる課題は、例えば、ジグソーパズルに取り組むようなものです。
完成までの途中に、そこにはめ込むピースが見つからなくて意地になることはあっても、悩み込みはしないと思います。
逆に、容易に出来ないところに、ジグソーパズルの醍醐味があります。
同じように、仮に、あなたの周りに解決すべき困難な課題があっても、解決できる予感があればそれを楽しむ事ができ、逆に、解決の予感を持てないと悩みになってしまうのです。
3-2-3.なぜ、あなたは、それを問題と考えるのですか?
悩んでいる状態は、『問題と考えている何かを解決しなければならないと考え込んでいる状態』とも説明できます。
ということは、それを問題と認識しなければ、解決方法を考える必要が無くなってしまいます。
ここにも、悩みから解放されるヒントがあります。
- あなたは、なぜ、それを問題と考えるのでしょう?
実は、
である場合がほとんどです。
- その時たまたま気になったこと
- ずっと以前から問題と信じてきたこと
『原因があるから結果がある』と考えるのは、現代社会においては普通の思考です。
ですから、苦しみから解放されるために、その原因を探し解決しようとするのも、ごく自然な流れです。
しかし、心の苦しみの本当の理由を理解せずに、原因探しをしても、見つかる全てのことは、コンプレックスになることはあっても、悩みの解決につながることは、まずありません。
これが悩みの核心です。
そんな状態に陥らない為に、まず、心の苦しみの本当の理由を理解しようとすることが大切です。
3-2-4.原因を探させるもの
なぜ、原因を探したくなるかということを、恐怖症的な状態を例に説明ます。
恐怖症的な心理や行動を理解しようとするとき、普通、自分には嫌な場面や状態があり、その場面や状態を避けようとしていると認識し、その状態になることを回避する方法をあれこれ考えようとします。(「強い心になる」というのもそんな回避方法に含まれます。) しかし、それは誤った認識と対応です。
正しい認識は、
- 特定の状態で感じる『自分の感情や感覚』の正しい対処方法が分からない
- 対処できないなら、感情や感覚を感じないようにしようとする
- 感じないために、それを感じることになりそうな状態になることを避けようとする
- 感じないために、それを感じる状態から逃れようとしている
ということです。
しかし、その感情や感覚を感じないようにしようと努力しても、それらは自分の内側から自然に生じてくるものなのでなかなか抑えることが出来ないと気付き、そして、行き詰ってしまうのです。
この「自分の力ではどうすることも出来ない」と感じるようなモヤモヤした感じが、原因を探させるもの正体です。
これは、自分に生じる感覚や感情を否定する事によって陥ってしまう状態で、感情や感覚の否定は、自分が身に付けてしまった世界観によって起こります。
ですから、世界観という記憶を修正する中で、自分がこれまで苦手としていた感情や感覚と正しく向き合う方法も、自然に理解できていきます。