04. カウンセラーの座禅体験記(その4)
座禅会に、参加しましてきました。(2003年6月8日)
老師の話
座禅は、本当の自分自身を求めるために行う。
座禅で、なぜ公案を考えるのか? 公案は、われわれが、「意味の世界」からどれだけ離れているかを確かめる試金石となる。
だから、答えてもらわなければならない。
「意味」や「答え」を要求するのではない。
「意味」や「答え」から離れさせようとするものである。
そして、どれだけ離れたかを試すものである。 お釈迦様が悟ったときに次のように言った。
「天地有情とともに成道す」これは「私一人が悟ったのではない。
天地などすべてのものが一緒に悟ったのだ」ということ。
「我見」(私の考え)、仏教ではこの「我見」が最後まで障壁になるとしている。
何かについて考え始めると、「私は~~~~」と、自己と対象物の関係に陥ってしまう。
悟ると「我」と対象物との距離が縮まりひとつになる。
自然の中で悟った人は、大地山河と一つになれたのである。
だから、「座禅」や「公案」を考えるとき、それを対象物と考えてしまうと、それから離れてしまう。
我を手放せば「座禅」や「公案」とひとつになれる。
「理」を手放しても死ぬはずがない。
「座禅」や「公案」を考えるとき主語はいらない。
考え方や論理を手放してみては如何か?
我々は、これまで、それにしがみついてきている。
それにしがみつくことは、「執着」であり「欲」である。
「理解」は「誤解」である。
私は、師匠から「わかったことは、捨てなさい」とよく言われた。
「我見」がなくなっても、そこには「自己」があり「山河大地」がある。
「公案」を与えられると、頭の中で思考がぐるぐる回りだす。
なぜ、ぐるぐる回るのか? なぜ、ほっておけないのか?
犬が自分の尻尾を捕まえようとして、ぐるぐる回るようなもの。
考えが考えを生む輪ができあがり、それを断ち切ることができなくなる。
公案:牛過窓れい
五祖が問うた。
窓にはまっている細い格子を牛の頭が通り、足が通り、胴が通ったのにしっぽは通らない。
どうしてか?
独参
私 : | 尾っぽはない。あると思うから、迷ってしまう。 |
老師 : | 「ない」というのでは、公案から逃げている |
私 : | 「悟りなんてない」というのが悟りではないか |
老師 : | 「ない」 まだまだ、座り方が足りないようだ |
ますます、訳が分からなくなってきました・・・