08. 付録

日常生活の事象のいくつかをピックアップして本文の補足として説明しておきます。
09-01. 社会について思うこと(メモ)
地域社会
地域社会とは、お互いに相手の存在を認知し合っているエリア、
お隣さん的な雰囲気(醤油を借りたり、子供を預かったり、雨の時に留守にしているお隣さんの洗濯物を取り込んであげたり…。) を保つことが出来る程度の大きさ(町内的なエリアか、それよりも小さいエリア)です。
地域の大きさは定義されるものではなく、人間関係の広がりによって変化するもの(人間関係の親密度に応じて、小さくなったり大きくなったりする) そこで暮らす人々が用事もなく戸外に居る確率が高い、地域の住民参加型イベントが盛んなど、住民が触れ合いやすい状況が必要です。
触れ合う機会さえあれば、あとは個人個人の本能によって自然に群れが形成されていくのだと思います。
学校社会
クラス、クラブという擬似的な群れを、本物の群れにしようと取り組むことが大切です。
小学校低学年においては、群れを守る役割を先生が果たす必要があると思われますが、成長につれて、同級生や先輩の中から、守る役割を果たす人が出てくるようになります。
しかし、昨今では、受験に重点を置くことが多くなり、上を目指して競い合うという非常に助け合いの少ない世界になっており、助け合う群れになり難いところがあります。
会社社会
終身雇用が主流だった頃は、会社への就職は、将来にわたって身の安全を保障してくれることを意味し、群れに属するに近い意味がありました。
しかし、能力主義の広まりとともに、個人競争の感覚が生じ、守れらている感覚が次第になくなってしまいました。
競わせたとしても、チーム単位とするなど、個人が感じる守られているという感覚を損なわないようにする工夫が大切だと考えています。
09-02. 子育ての常識
特に子供が小さいとき、育児は親にとって大きな負担となります。
また、何が正しくて、何が間違っているのかもサッパリわからないところがあります。
多くの育児本などが出ていますが、実際の育児にそれを取り入れようとすると、ほとんどの場合、親の負担が一層大きくなります。
それにも関わらず、それが良いのか悪いのかという結果はいつまでも確認することができません。
その本を書いた人の権威や著名度によって本の内容を盲信して実践を続ける人もいるかもしれ ませんが、それが本当に正しいかどうかは誰も保証してくれないのです。
何が良い、どうすれば良い、何が悪い、そうするのは悪い そんな情報の洪水の中で、親は自分の本能に従った行動を抑制し、「こんな時はこうすべきだ」とマニュアルや世の中の通説に従って対処しようとしがちです。
- 泣いている子供を抱きあげたら抱き癖が付くから、直ぐに抱き上げるべきではない
- おもちゃを買って欲しいと泣いて駄々をこねても我慢させる(我慢させるために、泣いている子供をそのままに放置する)
などといった感じです。
「育児本にそのように書いてあるからそうする」とか「みんながそのようにしつけているから」ということになると、親の望み・子供の望みの両方を叶えることが出来ません。
そんなしつけに何の意味もありません。
親が、「子供が自分の思い通りに動かずに面倒だから、子供を思う通りに動かすために叱りつける」という方がまだ理解できるのです。
子育ての初期において大事なことはたった一つ、群れを作るための基礎となる行動を習慣づけることです。
- 子供を甘やかせてはいけない
- 子供は厳しくしつけるべきだ
- 子供は甘やかせた方がいい
などということは、しつけに関する妄想でしかありません。
09-03. いじめ
いじめは、「いじめる人」と「いじめられる人」とに分けると本質が見えなくなります。
群れにまつわる本能的な行動を考慮すると、いじめが理解できるようになります。
「いじめる人」と「いじめられる人」の違いは、その時の某かの力関係によって生じているだけのなのです。
力関係を取り除くと、『相手に自分の腹を見せられなくなった人』同士の間で何かが起こっているということに気付けるはずです。
「腹を見せられない人」を集めて、次のような環境が成立させる圧力をかけてみると、同じ人の集まりでも、いじめられる人・いじめる人の関係に違いが生じることが予測されます。
[例]
- 近くに危険なグループが存在するような環境
- 遊びを重視する環境
- 学力が重視され、腕力が押さえつけられる環境
- 学力が重視されない環境
- 経済力を重視する環境
- 体力を重視する環境
群れの論理に従えば、
- 苦しい自分を抱きしめてもらう経験が少なかった
- そして、その状況が、今も続いている
と予測できます。
ですから、いじめ対策は、いじめをあぶり出して禁止しても意味がありません。
その当事者となっている子供たちが、家庭で得られなかった「抱きしめられる」という体験を、学校や地域の中で沢山させてあげることなのです。(いじめる子供も、いじめられる子供も…)
09-04. 自殺と犯罪
人は、なぜ、自殺するのでしょうか?自殺の表面的な原因は様々なことが考えられます。
【例】
- 人間関係のトラブル
- 経済的な事情
- 病気(身体的、精神的)
- 悲しい出来事との遭遇
しかし、その根源的な理由は1つだと考えています。
それは、
- 前述の表面的な原因の結果、心が苦しくなり、その心の苦しさを解決できないことに絶望したから
です。
表面的な原因の詳細には関係なく、『心の苦しさを感じたとき、その苦しさがいつまでも解消しないので、苦しさに押しつぶされてしまう』というのが、大まかに正しい理解なのです。
現代において、毎年3万人を超える人が自殺する状況が続いています。
そんな状況の中、政府や各種機関がそれを問題視し、防止しようと対策を検討したり実施したりしています。
その時、「自殺防止対策」といった言葉が使われることがありますが、『自殺防止』というと、ちょっとニュアンスが違うように感じるのです。
『自殺防止』と聞くと、私は「自殺しそうな人を見つけ出し、説得して自殺を思いとどまらせる」という印象を受けてしまいます。
そんな考えが行き過ぎると『自殺防止収容所』というものを作ってしまうことにならないかと心配になります。
本当は、自殺したい人などいるはずがありません。
しかし、苦しすぎて生きてはいられなくなって、自殺という解決策を選ばざるを得なくなってしまうのです。
死にたいと思うくらいの心の苦しさを解決してあげられなければ、自殺を思いとどまったとしても、その人は幸せにはなれません。
幸せだと感じる人が一人でも多くなるような対策が、正しい自殺予防の姿勢だと思うのです。
そして、幸せは経済的なことではなく、人とのつながりの中で得られる感覚なのです。
自殺は、心の苦しさを解決しようとしたときに起こす行動で、『自殺』という誤った解決策への執着が動機になります。
別の誤った解決策に執着すれば、様々な犯罪につながるのです。
つまり、心の苦しさは、自殺や犯罪を引き起こしてしまうのです。
現代においては、犯罪は、犯した個人の問題と認識されているため、犯罪を犯した後に、犯罪を犯した人が罰せられる社会のシステムになっています。
このような考え方が根底にあると、権威のある心理学者が『心の苦しさと犯罪の間には密接な関係がある』といった論文を発表し社会に受け入れられるようなことになると、恐ろしい社会になってしまいそうな予感がします。
心の苦しさを解決できなくしてしまう根本原因は、「心が苦しい」ということを人に話して泣くことが出来ずに、苦しさを一人で抱え込んで乗り越えようとすることです。
心の苦しさを解消するには、人に話して、見守られながら泣く必要があるのです。
しかし、「心が苦しい人は、自殺や犯罪を犯す確率が高い」などということが社会の通説になってしまうと、人に「苦しい」と話すと白い目で見られるような社会になり兼ねません。
また、自殺防止が行き過ぎた時と同様に、犯罪防止のために、心が苦しい人は、犯罪予備隊のレッテルを張られ、施設に隔離されるような事態にもなりかねないのです。
苦しい気持ちを話せずに苦しくなったのに、それを話すと犯罪予備隊扱いされるので、ますます心の苦しさを打ち明けられなくなってしまいます。
そんな社会になってしまうと、心に苦しさを抱えて追い詰められる人は、ますます増えていくことになるでしょう。
以前、『マイノリティ・リポート(トム・クルーズ主演)』という映画を見ました。
ある方法で犯罪予防が実現されている近未来社会が舞台の映画です。
その予防の方法は、超能力によって犯罪を予知し、犯人になると予知された人が犯罪を犯す前に捕まえ冷凍して隔離するというものでした。
対象者の選別方法は、映画とは違いますが、そんな社会は目の前に迫っているのかもしれないと、とても心配しています。
対策を検討し実施する人たちは、犯罪や自殺を予防しているつもりでも、本質を抑えていないと、目的とは反対に、それらを後押ししているようなことになり兼ねないのです。
そんな誰も幸せにしない社会にしないために、心を苦しめる本当のからくりを早期に理解し、正しい対処方法が世の中の通説として受け入れられる ことを願っています。
09-05. 奇跡のシステム
経済至上主義の中で生きている私たちは、この世に生を受けた子供を、その子を産んだ親の所有物と考えているところがあります。
しかし、私たちが、意図してその子供に心を宿している訳ではありません。
我々人間にそんなことはできないのです。
遺伝子操作の技術が発達しても、クローン技術が発達しても・・・。
そうやって、人の意思で肉体的な個体を作り出すきっかけを操作出来たとしても、そこに心を宿すことはできません。
そこに、心が宿るのです。
もしかしたら、そこには心は宿らない恐れだってあるのです!
きっと、いくら科学が発達したとしても、それを意図して行うのは不可能なことでしょう。
私たち人間は(人間に限らず生物全般に言えるのかもしれませんが・・・)、私たちには手の出すことのできない『心を生み出す奇跡のシステム』の排出口を担うため、そして、その奇跡のシステムが存在する証として、この世に存在しているのです。
このように考えてみると、子供は親の所有物と考えないとらえ方もイメージできると思います。
もちろん、これまで通り親が育てることもありですし、ご近所さんが育てることもありですし、地域で育てるのもありなのだと思います。
大切なのは、『奇跡のシステムから、そのシステムが存在する証である子供を、成長するまでの間だけ預かっている』ということを理解出来るかどうかなのです。
最後に、20年近く前の私が苦しみのどん底だった頃に浮かんだ『奇跡のシステム』に関する文章を紹介しておきます。
宇宙が生じたのは奇跡だ 地球が生じたのは奇跡だ
生命(いのち)が生じたのは奇跡だ
人間が生じたのは奇跡だ 「こころ」が生じたのは奇跡だ
そして、自分が生じたのは奇跡だ
奇跡的に重なった、この偶然 二度と起こらぬかも知れない、この奇跡
この奇跡のシステムを、 しかるべく生じた欲望が打ち砕く
再び自分を作り出してくれるかも知れぬ、この奇跡を
宇宙が滅びるまでの、この限られた奇跡を
真実は、守られるべきものなのかも知れない
おのれを捨てて 必死の形相で
叫び わめき、 泣きじゃくりながら
死にものぐるいで 自分を殺してでも ・・・・・・・・
しかし、人は決して真実と向き合おうとしない
ただ、こう思うことさえ、ただの愚かな妄想に過ぎないのかもしれない
宇宙の滅びは、もっと大きな奇跡に包まれているのであろうから…