心を楽にするために振り返る子育て

19. 結論めいたこと

私は、これまでずっと、心の苦しさのことをあれこれと考え、そして、理解したことを、様々な文章を通して皆さんにお伝えしようとしてきました。

そして、心の苦しさの本質も理解できたと感じています。

そんな雰囲気の中で過ごしているなかで、心に関する色々なことが結びついて、今、私の中で、更に一歩進んだ一つの答えが出たような感覚の中にいます。

結局、心の苦しさの根本的な課題は、『愛をどのようにはじめるのか』ということのようなのです。

そこを、人が成長するどこかの段階でクリアすれば、心は苦しみ続けることから解放されるということのようです。

「いずれかの段階」と書いたのは、成長して、大人になった後でも、遅くないということも、言っているつもりです。

そんなことを書いていきたいと思います。

少し長々とした説明になりますが、挫けずに、是非、最後まで読んで下さい。

よろしくお願いします。

01. 愛について

まず、愛についてです。 一般的にどのように定義されるのかを確認しようとWikipediaを除いてみたのですが、ややこしいことが沢山書いてあったので、読むことをやめました。

一応、Wikipediaへのリンクを付けておきますので、気になる方は見てみて下さい。

■愛: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B

今回の説明では、『それは、人の心を満たし、幸福を感じさせるもの』といった感覚で使っています。

愛は与えられるところからしか始まらない

愛の無いところで、無理に愛をはじめようとしても、そこから愛は始まりません。

なぜなら、愛を意識した時点で、自分の本当の気持ちと違う行動を強いることになるからです。

『愛』というフィルタが出来てしまうと、様々な事柄の分類を始めます。

そして、その一方を『是』、もう一方を『非』と区別するようになるのです。

人には、愛を与えられるときもあるし、与えられないときもあります。

簡単に表現すると「機嫌が良いときもあれば悪い時もある」といった感じです。

しかし、愛というフィルタによる分類は、人のその時々の自然な状態に逆らって、愛を与え続けさせようとする力を生み出してしまいます。

つまり、人がその時々の自然な状態でいることを許さない力として働くようになるのです。

そして、更には、その力は、自分に対してだけではなく他の人たちにも、『是』として分類される行動を強要するようになってしまうのです。

『是』として分類される行動が出来ない状態のときに、『愛』という大義名分によって強迫され、それを行なおうとすることは心理的に大きな負担を与えます。

そして、その負担は、ストレスとなって心に蓄積され、やがて爆発するときを迎えてしまうのです。

それは、本当の愛なのでしょうか?

なぜ、人は、愛を与えたがるのか?

なぜ、そんな自然な心の流れに逆らってまで、愛を与え続けようとすることがあるのでしょうか?

そこには、その人の「愛されなかった」、そして、「愛されたい」という思いや無意識の感覚があるからです。

そして、その思いは、心の傷が生み出すものなのです。

その心の傷によって、事柄の多種多様な面の中の『ある一つの側面』に執着させられ、自分が欲しかったそれを人に与えれば、相手は喜ぶと信じ込んでしまっているのです。

小さな子供たちは、自分が大切にしているプラモデルを大切にしている相手にあげれば、相手はそれを受け取って喜んでくれると考えます。

大人たちは、「プラモデルが好きではない人にプラモデルをあげてもその人は喜ばない」ということを知っています。

ところが、あげるものが「優しさ」とか「愛」とかいうこととなると、大人もそのことが分からなくなってしまうのです。

「優しさ」とか「愛」とかをあげれば、相手は喜ぶと思い込んでしまっている人は多いのです。

「優しさ」とか「愛」などと言っても、具体的には、それが何なのかが分からないにも関わらずに・・・・。

どうしても、それが何なのかが分からなくても、それを与えたくなってしまうのです。

自分がそれを欲しかった反動として、「自分の大切な人にはそれをあげたい」と強く望んでしまうのです。

自分が、愛だと推測したものを、与えようとしてしまうのです。

愛を与えようとすると、偽善になる

「自分が欲しかったものを、相手に与えること」にこだわれば、それは愛ではなくなります。

「与える」ということは、相手にそれを受け取ってもらわなければ実現できません。

そこで、強い欲求は、相手にそれを受け取ることを強要してしまいます。

しかも、与えるものは、やりたくない自分に強要して、相手の為だと思い込んだことです。

つまり、そのようにしてやり取りされることは、与えることも与えられることも望まれていない、得体の知れないものなのです。

これは、ボロ布に火をつけてそれを相手に渡そうとする感覚に似ているような気がします。

もらう方はそんなものもらいたくないし、あげる方はもらってもらわなければ困るのです。

それは、『愛』ではなく『偽善』と呼んでみることにします。

偽善も『愛』と同様に色々な意味があるようです。

これもWikipediaへのリンクをつけておきます。

■偽善: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%BD%E5%96%84

ここでは、『本人の望みに反する善行』という意味で使っていきたいと思います。

愛は見返りを求めないが、偽善は見返りを求める

本当の愛の心で何かを与えたときには、それだけで自分の心が満たされます。

相手がそれを拒否しても、自分の愛を主張することはしません。

「その人はその時にはそれが不要だったんだ」と、素直に受け入れることができるのです。

しかし、偽善には、相手に感謝を強要する気持ちが秘められています。

感謝の見返りが無ければ、不満を生み出します。

相手のためにしてあげたことを、相手がありがたがらないと、不満を感じてしまうのです。

その理由は、『愛』という虚像を与えるために、自分の気持ちに反して「やりたくもないこと」をやっているからなのです。

「あなたのために、やりたくもないことを一生懸命やってあげているのに、なぜ、あなたはありがたがらないの!!」と相手を責めてしまうのです。

やりたくもないことを無理にしているのなら、そんな気持ちになることは理解できます。

このように、人を愛そうとすればするほど、人の心を傷つけ、そして、自分の心の傷にも塩を塗ることになるのです。

たとえ、はじめは本当の愛に近い気持ちで始まった行動であったとしても、それを自分に強い続けていれば、それは次第に偽善に変り、必ず不満を生み出します。

その不満は、やがて、執着や嫉妬へと変わっていきます。

そして、執着や嫉妬が、自分や他人を更に苦しめることになるのです。

02. 愛を与えるために

『愛』を考え過ぎると、禅問答に陥る

愛されていることを実感していなければ、愛は与えることはできません。

愛を与えようとすると、それは愛ではなくなります。

愛を与えようとすると、愛は与えることができなくなるのです。

でも愛は、確かに人から人へと与えられていくものなのです。

愛された人だけが、与えようとしなくても与えてしまうものなのです。

愛とは、まるで、禅問答のようです・・・。

愛は、どこから始まるの?

どうしたら、愛を与えようとせず、愛を与えられるようになれるのでしょう?

それには、まず、『愛されていることを実感すること』が必要なのです。

突き詰めていくと、「生まれたときから、ずっと、愛が与えられ続けている必要がある」ということになってしまいます。

しかし、今の世の中においては、それは無理な相談です。

今の世の中でなくても、たぶん、無理なことなのかもしれません。

そして、そんな必要もないだろうと思います。

自分は愛されているという実感を身につけることが出来ればいいのです。

何でも身につけようとすれば、ある程度の期間が必要です。 同じように、愛されているという実感も、自分は愛されていると繰り返し体感できる期間があれば、身につくのだろうと思います。

愛されていることを繰り返し体感させてくれる場所が、自分が生まれ育つ家庭なのです。

『愛』に焦点を当てたとき、それが家庭の役割だといえるのだと考えます。

愛の始まる場所をたくさん見つけ、そこに身を置く

しかし、家庭にこだわり過ぎる必要はありません。 家庭以外にも、そんな場所を見つければ良いのです。

そして、この社会の中に、「そこに行けば愛されている」と実感できるる場所(人のいるところ)が多ければい多いほど良いのです。

それぞれは僅かな愛であったとしても、その愛を繰り返し感じることが、その人が「本当に愛されている」と体感することにつながるのです。

そう体感するために、この世の中に無数にある場所の中から、自分にとってのそんな場所を沢山見つけていけば良いのです。

逆に、色んな場所を、自分のそんな場所にしていけばいいのです。

そして、そこに身を置けば、自分を愛の始まりの場所へとすることができるのです。

その為になすべきことは、「自分の本当の感情を話す」というとても簡単なことです。

このことは、後で、もう少し詳しく触れることにします。

03. 愛の正体

恋愛でいうところの愛の意味

恋愛のときに使う「愛してる」は、ここで取り上げている愛ではありません。

あれは、恋愛に酔って「大好きだ」ということを「愛」と言っているに過ぎません。

結婚してしばらくすれば、酔いから覚めた人たちは、「愛してる」などとは言わなくなります。

しかし、お互いにきちんと向き合っていれば、そこは愛を与え与えられる場所となっているのです。

分かち合うこと、共有すること

では、本当の愛とは何なのでしょうか?

「愛している」という言葉だけを言われても、それを感じることは出来ません。

「お前の為だ」と言って何かをしてもらったとしても、本当の愛は感じることは出来ません。

愛を与えてくれる場所では、どういうことが行なわれるのでしょうか?

それは、

  • 感情を分かち合うこと
  • 共に喜んでもらうこと、あげること
  • 悲しみ苦しみに寄り添ってもらうこと、あげること

です。

このやり取りによって、人は、穏やかで楽な気持ちに戻ることが出来ます。

そして、その穏やかで楽な気持ちに戻る流れの中で、愛を感じるのです。

  • 過ちを許されること、許すこと

過ちは、許されて初めて、悔い改められるのです。

許されると思うから、あちらの側に誤って行ってしまったとしても、悔い改めてこちらの側に戻ってくることができるのです。

それを助けることが、最大の愛なのかもしれません。

決して許すことが出来ないことを許すこと。

それをする為には、まず、自分自身が大きな愛で包まれている必要があるのです。

04. 愛が抱える矛盾

愛を求めれば、愛は奪われる

しかし、誰かに愛を強要しても、愛は得られません。

それは、相手に、愛をはじめる役割を負うことを強いるからです。

愛を与えることに縛られた相手の行動は、偽善にしかなりません。

そして、愛を求めた人は、そんな相手の行動に偽善を感じて、更に、相手に愛を強要することを繰り返さざるを得なくなるのです。

愛を求めれば、自然にそのような矛盾した流れを作ってしまうのです。

愛を与えようとすれば、愛は与えられない

『愛』、それは、与えなければ手に入れることは出来ません。

しかし、与えようとしても与えることが出来ません。

愛されているときだけ、無意識に与えてしまうような性質をもつのです。

人の心の状態は、人によって、また、時と場合によってまちまちです。

相手には相手の心の流れがあり、自分には自分の心の流れがあります。

自分の心の流れに沿って、相手がそれを与えてくれることを期待することを、相手への愛と呼べるのでしょうか?

相手に愛を求めれば、相手から愛を奪うのです。

相手に愛を求めることは、自分から相手に与えられたかもしれない愛を、相手から奪うことになるのです。 

これらが、愛が抱える矛盾です。

05. 愛を与える為に

愛は、どこから始まるの?

愛は与えられなければ、始まりません。

そう考えてみると、ずっと過去にさかのぼっていった時に、人類で最初に愛を与える人は、一体誰から愛されていたのでしょうか?

それは母性という本能なのかもしれません。

人が言葉を持たないただの動物だったとしたら、世代を越えて愛をつないでいくのは、母性だけで、十分だったのかもしれません。

自然も、試練は与えますが、どんな状態でも、その存在をありのままに受け入れてくれます。

しかし、人間は、不幸?なことに、言葉を持ってしまいました。

色々なことや状態に意味づけをしてしまう道具を身につけてしまったのです。

それによって、母性だけでは、愛は伝わらず、逆に、放っておけば、意味への執着を強め、愛は涸れる方向へと自然に流れてしまいます。

そして、現代の人たちは、現代社会が価値があると思い込んでいることに、愛を失い愛を捜し求める心は、執着してしまっているのです。

それが今の社会の状態です。 今の世の中で、人の意思によって引き起こされている不幸な出来事のほとんどは、そんな執着から生じているのです。

愛の始まる場所を生み出すシステム

それを解決する為の一つの手法が、神を作り出すことだったのだろうと思うのです。

神は本当に存在するのかもしれませんが、私には、それを実感することは出来ません。

いくら考えても、いくら感じようとしても、私には分かりません。

そして、私は、神を信じているわけでもなく、信じていないわけでもありません。

しかし、神の存在を実感できない人たちも、神から愛されていると信じ込むことで、それを信じ込んだ人は、愛をはじめられる人に変わることができるのです。

それをシステム化したのがキリスト教の画期的なところなのだろうと考えています。

私は、キリスト教徒ではないので、その教えはほとんど知りません。

映画などで得た情報をツギハギとして知っているに過ぎません。

例えば、次のような感じです。

  • 牧師は、人に、「神から愛されている」という教えを説く。
  • 人々は、それを信じる。
  • 礼拝は、様々な垣根を越えて、人を孤独から引っ張り出し、集まりを作る。
  • 懺悔によって、人は、罪を告白し、牧師がそれに応答することで、擬似的に神から許され、罪を悔い改める。

そして、ずっと、気になっていた言葉があります。

  • 「汝の隣人を愛しなさい。」
  • 「右のほほを打たれたら、左のほほを出しなさい。」

「一体、何を言っているのだろう?」と、頭の隅っこの方で、ずっと気になっていました。

最近、その意味が分かったような気がしています。

これらの言葉は、恐らく、その後に続く次のような言葉が省略されているのです。

「なぜなら、お前たちは、神に愛されているのだから・・・。 だから、お前たちの心が苦しくなっても、神の愛は救ってくれるだろう」

そう理解するようになりました。

繰り返しますが、私は、キリスト教の信者ではありません。

その教えもほとんど知りません。

そして、その状態を今後も変えるつもりはありません。

でも、このシステムは習うべきところがあると思うのです。

宗教で語られる教えではなく、システムです。仕組みです。

孤独の中から人を引っ張り出して集め、いつでも許される場所を提供し、許される体験ができるシステムです。

これを色々なところで活用すれば良いのです。

家庭で活用すれば
  • 子供が父親に叱られたら、母親がつらい気持ちの聴き役になる
  • 子供が母親に怒られたら、父親がつらい気持ちの聴き役になる
  • 子供が外で、つらい思いをしてきたら、両親がつらい気持ちの聴き役になる
  • 奥さんがつらい気持ちになったら、その気持ちを旦那さんが聴き寄り添う。
  • 旦那んがつらい気持ちになったら、その気持ちを奥さんがが聴き寄り添う。
  • 家族の誰かが過ちを犯したら、罰するのではなく、悔い改められるように、その気持ちを聴き寄り添う
  • 家族が喜んでいたら、共に喜び合う
学校で活用すれば
  • 何かでつらい気持ちになったら、そんな気持ちに寄り添ってくれる
  • 先生に叱られたら、叱られて陥った気持ちを別の先生が聴いてくれる
  • 過ちを犯したら罰を与えるのではなく、気持ちを吐露し悔い改める機会を与える
  • 例え退学になっても悔い改めれば許されて再入学できる。
職場で活用すれば
  • 何かでつらい気持ちになったら、そんな気持ちに寄り添ってくれる
  • 上司に叱られたら、叱られて陥った気持ちを別の上司や同僚が聴いてくれる
  • 仕事に失敗したら、過ちを責めるのではなく、失敗してつらい気持ちを聴き寄り添う
  • 例え辞職した後でも、悔い改めれば許されて再入社できる。
更に、これらのことが、その場所の垣根を越えても行なわれるのが理想なのだろうと思います。 そして、たとえどんなときでも、その全てをカバーできる最強の場所は、家庭なのです。

06. 現代のありよう

愛という言葉に縛られ、愛を失う

今の世の中は、人に愛することを強要します。

余りにも多くの非難で溢れ返っています。

非難の本質は、「自分とは無関係な人への愛を、自分とは無関係な人たちに要求している」ということなのです。

「自分とは無関係な人たちに無関係な人たちへの愛」を要求する人たちの多くは、自らは人を愛することは出来ません。

それが、何なのかが分からないからです。

「自分は愛を与えている」、「自分は愛を与えようと心がけている」と疑わない人は、多くいるかもしれません。

しかし、『愛』を意識しているというだけで、それは偽善になるのです。

意識してしまえば、ものごとを意識したことに当てはまるかどうかという仕分けが始まります。

そして、それに執着すれば、自分に我慢を強いたり、人に、それを強いるようになるからです。

本当に愛を与えている人たちは、『愛』という言葉など意識していないだろうと思います。

今の世が過ちを許せない訳

今の世の中では、過ちが決して許されないところがあると感じています。

特に、当事者ではなく、関係のない人たちが許しません。

「許し、許される」ということは、当事者間でしか起こり得ないことです。

だから、関係のない人たちが、許せるはずはありません。

なのに、関係のない人たちは、何かに気付くと、それをそのまま放っておくことができず、許す予定も無く、責めたて始めます。

特に、メディアが思慮も無く垂れ流す情報は、そんな関係のない人たちを、次々と作り出しているのです。

個々の問題を、当事者たちから取り上げて、許さない人たちを無尽蔵に生み出しているのです。

そして、あれだけ責めたてていた人たちは、許すことなく、ただ、忘れていくのです。

当事者たちは、それを待つことしかできません。

ただ、耐えながら待つ、別の騒ぎが起きて、忘れられることを待つしかないのです。  

そして、挙句の果てには、そんな騒ぎは何も生み出しません。 生み出したとしても、それを取り巻く無意味な組織が、罰を与え、無意味な規則を作り出すだけです。

怒れる烏合の衆の騒ぎを鎮めることの為だけに・・・。

当事者以外が騒ぎ立て、当事者を蚊帳の外において、そんなことが勝手に行なわれていく。

そんな日常は、当事者たちに疲労を与え、そして、悲しみや苦しみの中に取り残したままにするのです。

また、そんな日常は、『許されないことをしてしまうかもしれない』という恐怖の雰囲気を作り出しています。

その雰囲気を作り出してしまった人たちが、自分たちが作り出した恐怖の中でのた打ち回わっているのです。  

自分たちの振る舞いがそのような恐怖を作り出しているということにも気付かずに・・・。

何かが起こる度に、愛に飢えた人たちは群がって、懲りずに愛を与えろと騒ぎ立て、更なる恐怖を作り出すことを繰り返しているのです。

そこ(他人の問題)に群がっても、自分にとっての愛はないのに・・・・。

なのに、騒ぎに便乗して、愛をよこせと騒ぎ立ずにはいられなくなってしまっているのです。

騒ぎ立てるように、マスコミなどの無意識の活動によって、仕向けられているのです。

07. 愛することも分かち合う

自分にできることはやってあげ、出来ないことは断る。

難しいことはできる範囲をやってあげ、出来ないところは断る。

たとえ、断られても、別の人が、できることはやってあげられる。

そして、出来ないことは断る。

それが、その人がみんなの愛に包まれることにつながるのだろうと思うのです。

そこを無理して愛を与えようとすると、その偽善によって、その人が本来他の人からもらえたかもしれない愛をも奪い取ってしまうことにつながるのです。

しかし、無理に愛を与えようとすることを、本当の愛だと信じている人は、たくさんいます。

全てを、引き受けてしまうことは、「自分が、その人に愛を与えないと、他の人は愛を与えない」と言っているかのようです。

そんな人たちは、この世の中が、それほど愛のない世界だと、感じてしまっているのです。

現代の人々は、愛に飢えているのです。  

これらのことを踏まえて、各自が考えて行動していかなければ、この世の愛は、ますます涸れていくような気がします。

08. 愛するために(1)

何もしてあげようとしないことがお互いを楽にする

「苦しむ人を放っておけない」というところが強い人は、人の苦しい気持ちを知ると、自分の気持も苦しくなります。

また、人の苦む人を放置することに、罪の意識を感じてしまいます。

そして、放っておけなくなります。

放っておけなくなるのは、その人の気持ちではありません。

その人を、そのような状況においたままにできなくなるのです。

つまり、

  • その人が問題と認識している課題を解決すること
  • その人が、そう考えることを回避させること

に意識を向けてしまうのです。

相手の苦しみを知った人は、自分に生じる苦しさから逃れるために、そんなことをあれこれと考え始めます。

あれこれと考えることは、更に、考える人の心に負荷を与えます。

そんな風に苦しさが次第に大きくなっていく状況から、早く逃れたい気持ちになるのは当然のことです。

そして、その時に感じる苦しさから逃れるために、相手の抱える課題の解決を、自分や相手に強要するようになるのです。

相手のためではなく、自分が相手から与えられると感じる苦しさから逃れる為に・・・。

時には、それを自分自身がやらなければならなくなります。

気持ちを聴かなかったらやらなくても済んだことを・・・。

時には、それを相手に強要することになります。

相手に話さなければ、やらなくても済んだことを・・・。

これは『自分がやるか相手がやるか』というの戦いのようです。

「何とかしてあげたい」という気持ちは、それが強ければ強いほど、その思いに反して、こんな戦いの構図を作り出してしまうのです。

では、どうすれば良いの?

それは、相手の抱える課題を解決しようとはせず、ただ、相手のそばに、ただ、寄り添っていてあげるだけで良いのです。

それが本当の安心を与えられる唯一の行動なのです。 それで十分なのです。

それ以外のことは、全ては余計なことなのです。

これは、『そばに、ただ、寄り添っていてもらうと安心な気持ちになる』ということを

  • 過去に体験して知っているか
  • 体験できなかったら知らないか

の違いでしかありません。

ですから、今、その事実を、知識として知れば良いのです。

「何もしないで良い」と思うと、苦しい人と長く時間を共有しても、それほど心の負担にはなりません。

自分自身を楽な状態に保つことができます。

そんな楽な人が時間を共有してくれることが、安心につながるのです。

『相手の心の苦しさを楽にしてあげたければ、何もしようとしない』 ただ、何もせず、そばに寄り添っていてあげることが、実は、『最大のしてあげていること』になるのです。

相手の言葉を

「そうかそうか、苦しいんだね・・・。苦しかったんだね・・・。良く頑張ったね・・・。」

と聴いてあげるだけで良いのです。

解決や対策は、ほとんどの場合、心を楽にすることにはつながりません。

解決や対策は、相手の心が楽になった後で、改めて一緒に考えればいいのです。

そして、協力できることは、協力してあげれば良いのです。

気持ちが楽になる前にやろうとするから、複雑になるのです。

09. 愛するために(2)

愛されることからはじめる

愛のないところで愛を求め、与えようとすればするほど、愛は涸れていきます。

そして、やがて、愛のないエゴだけの世界となり、様々な執着を作り出し、その執着は、やがて、争いに変って、ますます広がっていくでしょう。

それを食い止めるためには、まず、愛されることから始めなければならないのです。

その為にすべきことは、とても簡単なことです。

自分の正直な感情に気付き、それを素直に人に話しましょう。

そして、話された人は、建前ではなく、正直な気持ちで、答えてあげましょう。

話された人は、その内容ではなく相手の表情を良く見ようとして下さい。

すると、「価値観は人によって違う!」と言っていた人も、相手の感情には結構簡単に寄り添えることに気が付くはずです。

「嬉しいんだね!」「苦しいんだね・・・」って。

そう言いながら、側にいてあげるだけでいいんです。

他に、何か気の効いたことを言う必要はありません。

解決する方法を考える必要もありません。

まず、大切なことは、楽な気持ちに戻してあげることなのです。

楽な気持ちに戻ることができれば、自分で解決しようと出来るものなのです。

課題に対する解決策を見つけてあげたり、実際の課題を解決してあげることが、心を楽にするわけではありません。

「どんな気持ちのときも、一緒にいてくれる人がいる」、ただ、そう思えることが、安心な気持ちにつながるのです。

自分の苦しい気持ちを話しましょう。

事実ではなく、感情を中心に話しましょう。

そうすれば、苦しさは心から排出され、ビックリする位に楽な気持ちになるものです。

自分の喜びの気持ちを話しましょう。

そうすれば、嬉しい気持ちを吐き出すから、嬉しすぎてしんどい心が、楽な心に戻れるのです。

この喜びや苦しみから楽な心に戻る流れを、人と共に過ごすことで、人は安心し、そして、愛を感じるのです。

自分の過ちを、人に話しましょう。

誰か、話せる人を見つけて話しましょう。

知っている人には話せないことなら、匿名が可能な電話相談などを活用して、知らない人に話しましょう。

何かを解決する為ではなく、ただ、聴いてもらいながら、時を共有してもらうために。

そして、過ちによって生じた苦しさが心は楽になれば、悔い改められるのだろうと思います。

10. 愛するために(3)

本当の気持ちを話すことは、愛を感じることにつながる

本当の感情や気持ちを話すことは、愛を感じることにつながります。

「他人には話せない」と思い込んできたようなことほど、愛を感じるきっかけになります。

話しても大丈夫な場所を見つけ、話すことが出来れば、それを聴き入れてもらったとき、これまで溜め込んできた感情が排出され、大きな安心を得ることにつながります。

「ただ、相手の気持ちを聴き、そんな気持ちになっている相手に静かに寄り添っていること」 そんな些細とも思えることが、愛を与えるものの正体なのだろうと思います。

そして、その中で感じる感覚が、愛なのだろうと思います。

そうやって愛を感じると、自分自身は、神に頼らなくても、既に『愛を与える人』に変わっているのです。

たとえ、愛を与えようとして、ちょっと無理をしてしまったとしても、ちょっと苦しくなった自分は、誰かに寄り添ってもらえば楽な気持ちに戻ります。

そして、楽な気持ちになるから、与えようとして与えたような愛でさえも、見返りを求めたくなる執着から解放され、真実の愛に近づくのだと思うのです。

そして、そんな人たちから愛が、次々と広まり始めるのです。

話す目的

話す目的は理解してくれない人に理解してもらう為ではありません。

心に苦しさを抱える人の気持ちを理解してくれなかった人は過去にいます。

はっきり言ってしまうと、生まれ育った家庭の中にいた大人の誰かです。

子供の頃は、家族に理解してもらうことが、どうしても必要だったかもしれません。

しかし、成長した今、その過去の人だけにこだわらなくても良い状況に置かれていることに気付けるはずです。

だから、理解してくれる人を見つけ出し、理解してもらう為に話しましょう。

もう、理解を求めるべき対象は、過去に理解してくれなかた人だけではないのです。

なぜなら、人は成長に伴って、家族以外の無限の人たちに出会える可能性が大きく膨らんでいくからです。

自分の気持ちを理解してくれる人を探して、表の世界に飛び出していけば良いのです。

そして、行動を起こしさえすれば、それは結構直ぐに見つかるものなのです。

人が求めている本当のものは、価値観への合意ではなく感情への合意

そんな人を見つけるためには、自分の本当の気持ちを、勇気を出して話さなければなりません。

それを話さなければ、相手が、それを理解してくれる人かどうかを確認することが出来ないからです。

仮に、その人が、理解してくれる人だったとしても、それに気付かずに通り過ぎてしまうことになるのです。

話す内容は、価値観ではなく、気持ち(特に、感情)です。 価値観に同意を求めても、難しいことのほうが多いと思います。

しかし、普通の人であれば、他人の感情には、同意するしか道はないのです。

感情を話して同意されないとき、別の話し相手を探しましょう。

感情を話すと、慌ててしまって「そんな風に考えなくてもいいよ!気にしなくても大丈夫」という励ましの言葉で感情を否定する人がいるかもしれません。

しかし、それにショックを受ける必要はありません。

ただ、落ち込んでいる人を勇気付けたくて言っているだけなのですから。

それ以上の意味が無いことは多いのですから。

そんなときは、相手に、ただ、次のようなお願いすれば良いのです。

「私の気持ちを聴きながら側にいてくれるだけで安心になれそうだから、そうしてね・・・。 あれこれ考えてくれなくても大丈夫だからね」

などとお願いすれば良いのです。

11. 愛は伝染する

安心は伝染する

そうして、そうするだけで安心な気持ちになっていきます。

また、安心になっていく変化を、相手の人は目の当たりにすることになります。

そして、安心になっていく相手の様子を見ていると、安心のお裾分けをしてもらうことが出来ます。

「何かしてあげたい」という気持ちが強いと、ここを見逃してしまいます。

その後、相手の人が苦しい気持ちになってしまったときに、「話を聴きながら側にいてくれるだけで安心になる」という依頼の言葉を思い出し、同じようにしてみようと思うのもしれません。

自分を人から安心にしてもらうことは、その人に安心になる方法を伝えることにもつながるのだろうと思います。

だから、「自分のつまらない話を聞かせるのは申し訳ない」などと思わずに、堂々と話し、安心にしてもらえば良いのです。

自分の為に、そして、将来の相手の為に。 自分が安心になっていく様子を相手が見ることは、愛を広げることにつながるのです。

気持ちを聴いて、そんな気持ちの側に、自分の時間の許す範囲で、気持ちの大丈夫な範囲で、静かに寄り添っていてあげる。

誰にでも、できることです。

なのに、今の世の中の人たちは、難しく考えすぎるから、そんな簡単なことを、大事なことだと分からなくなってしまっているだけなのです。

それが世界を、『人々が苦しみ続けなくても良い世界』に磨き上げていくになるのだと思います。

そんなことを考え行動し始めた時点で、世界は変らなくても、既に苦しみ続け無くても良い世界を手に入れているのです。

そんな人のバランスが崩れ、今は、そうではない人の方が多くなってしまっているのではないかと想像しています。

そして、そんな安心な人が増えていくにつれて、世界は変っていくのです。

神を頼らずに、そんなことを実現する可能性があるのが、そうかそうかムーブメントなのだと信じています。 『そうかそうかムーブメント』に、ご協力よろしくお願いします。
最後まで、読んで下さってありがとうございました。 もし、納得感があったら、あなたの周りの人にも、このことを教えてあげて頂けると、嬉しく思います。 できる範囲での、ご協力をお願いします!

2009.04.03 田中順平

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