オール・オア・ナッシング(全てか無か的思考)
オール・オア・ナッシング(全てか無か的思考)という言葉に出合ったとき、その説明としてあるのはその考え方の特徴が示されているだけの場合がほとんどのような気がしています。
もともと何かを解決したいと思っていろいろと調べていたのに、そんな説明に出合ってしまうと、『オール・オア・ナッシング(全てか無か的思考)』という傾向性をもって生まれてくる人がいるというような錯覚に陥って、なぜそうなってしまうのかと考える意欲を削ぎ取られてしまうことがあるかもしれません。
そして、自分は、「オール・オア・ナッシング」といういけない思考の持主なんだというように考えてしまうと、
- その考えの傾向
- それに伴って生じる苦しい気持ち
- そして、そんな自分に対する自己否定的な感覚
などを、これからも死ぬまでずっと抱えて生きていかなければならないような気持ちになってしまうだろうと思います。
これは、『自分の人生=苦しい』という等式が成立したことに等しく、気持ちを楽にする意欲や自分を大切にしながら生きていく意欲を失ってしまっても不思議ではないような気がします。
また、たとえ、解決しようと取り組むことが出来たとしても、『その考えを理解する』ということよりも、『その考えを手放す』ということの方ばかりに意識が集中してしまい、その考えを手放している振りはできても、本当の意味でそれを手放すことからは程遠い状態となってしまいます。
これは、一見、解決を目指しているようなのですが、解決したいという気持ちとは裏腹に、『オール・オア・ナッシング(全てか無か的思考)』という言葉のとりこになってしまうところがあります。
これから書く内容は、そんな状況から抜け出すヒントになればと思います。
不確定な状況に、規則をつくって適応してきた可能性
というのは、自由度のある健康的な行動パターンだと思います。
そして、普通は、そのパターンを繰り返すことで、完璧は難しいかもしれませんが、ある程度自分の気持ちや価値観を尊重した状況を実現することができます。 しかし、自分の感情や感覚があてにならないと感じるような状況では、そうはいきません。
自分の感情や感覚に従って行動すると苦しみやつらさが増すような状況では、それ以外のところで、自分の生きる世界を支配している法則を見つけ出し、それに沿って対処するしか道はなくなってしまいます。
そんな状況で過ごしていると、自分が安全・安心に生きていくためには、感覚や感情(自分自身の感情や感覚もそうですが、他人の感情や感覚も、同様に扱われます)よりも、
ということのほうが重要になってきます。
そんな雰囲気の人をはたから見れば、『オール・オア・ナッシング(全てか無か)』的な考え方の人だという表現にはなるかもしれませんが、それは、その人が、自分の感情や感覚を犠牲にして、必死に、環境に適用しようと努力している姿だということなのです。
自分の気持ちが伝わらない(伝えられない)状況での精一杯の叫び
自分の気持ちや考えを表現することが、とても苦手だったとします。 言いたくても、うまく言えない(伝えられない)といった方が正確な表現かもしれません。
自分の気持ちを相手に伝えることが出来ないと、その先に起こる出来事に自分の意志として反映させられていることはありません。
自分の気持ちがたまたま汲み取られていることはあっても、自分の意志でそうできたという実感が持てないので、『心が満たされた』という感覚を十分に得ることができないと思います。
そんな経験を繰り返しているうちに、『自分の気持ちをきちんと言いたい』という気持ちが強くなっていくのは自然なことだと思います。
しかし、『自分の気持ちを言い難い』という感覚を持っているので、思ったことを思ったときにサラッと言うことは難しく、そんな言い難い感覚の中で、自分の話すことの正当性を裏付けるための思考が繰り返され、また、言い難さに打ち勝って話し出すためのパワーが蓄積されていきます。
そして、そのパワーが言い難さを超えたとき、一種の爆発のような感じに、気持ちが放出されるのです。
言い難い人は、そのパワーの威力にはなかなか気付かないのですが、言われた方には、『突然爆発した』というような印象を与えてしまいます。
言い難さには理由があります。
言い難さの雰囲気を簡単に表現すると、「言っても仕方が無い」といった感じのことは多いと思います。もっと、正確に言うと、
ということだろうと思います。
ですから、言い出す前には、「これだったら相手に受け入れるだろう」という最終提案になるまで、これまでの人生の経験を踏まえながら、自分の中で練り上げられている事は多いのではないかと思います。
これは、自分の本当の希望を、相手に確認する前に、自分自身が検閲を掛け、勝手に封じ込めてしまっているのですが、当人の人生においては、そうでもしないと、自分の提案が通ることはなかった為、身についてしまった習慣なのです。
そんな思いのこもった最終提案を、しかも断腸の思いで相手に伝えたのに、それを否定されたとしたら、その時に感じるショックは相当なものだろうと思います。
- 相手の言ったことを否定したときに相手に起こるショックな様子
- 自分の言ったことを否定されたときに自分に起こるショックな気持ち
のことを、『オール・オア・ナッシング(全てか無か)』的な考え方の人だという表現にはなるのだろうと思います。
言い出しにくいときに、どれだけのことを考え、また、我慢しようとしたかを思い出してみて下さい。
決して、『オール・オア・ナッシング(全てか無か)』的な考え方になんかなっていないことに気が付くと思います。
子供時代の家庭での人間関係の影響は大きい
2つの説明をしましたが、『オール・オア・ナッシング(全てか無か的思考)』と呼ばれている傾向性を、思考の根底として位置づけられてしまいやすいとき、このようなことを子供時代の家庭で日常的に経験していた可能性は、非常に大きいと思います。
このような状況に陥り易い状況としては、自分にとって重要な人間関係(*1)において、次のような状況があることを想定しています。
- 相対する人が、気分が不安定で、時と場合によって言うことがコロコロと変わる傾向が強い
- 相対する人に、他者を許容するゆとりがなく、自分の感情と感覚を優先させる傾向が強い
- 相対する人が、特定の価値観に執着し、他者の価値観を受け入れない傾向が強い
まとめ
『オール・オア・ナッシング』が気になっている人にアドバイスするとしたら、
- 自分の感情や感覚に意識を向け、そして、大切に扱う
- 些細なことでも、自分で勝手に決めてしまわず、相手に相談する
違う言い方をすれば、
- 自分の感情や感覚は、感じたときに、すぐ、素直に相手に伝える
- 相手に聞きたいと思ったことは、思ったときにすぐ尋ねる
ということです。 それができるようになれば、『オール・オア・ナッシング』などという意味不明な言葉は、もう、気にならなくなるのだろうと思います。