04 「感覚」のあやふやな結びつき
私たちは、知覚現実に記憶投影現実をオーバーラップさせて合成現実(人にとっての現実)を形成します。
このとき、実体から何らかの刺激を受けることによって生じた感覚や、その刺激によって記憶投影現実の中に呼び起こされた感覚は、比較的適切な対象にオーバーラップされます。
また、何かを思い出したり空想したりするときなどに、記憶投影現実からの刺激によって呼び起こされる感覚も、比較的適切な対象にオーバーラップされます。
これに対して、漠然と生じている感覚は、それをオーバーラップさせる対象が知覚現実の中にはありません。
私たち人間は、理解できないことを、そのままにしておくことが苦手なところがあります。
そのために、漠然と生じている感覚も、そのままにしておけません。
そこで、合成現実(人にとっての現実)の中で、その感覚をオーバーラップさせる対象、つまり、その感覚を生じさせる原因を探し出そうとします。
合成現実(人にとっての現実)は、知覚現実と記憶投影現実に分割できます。
ですから、漠然と生じている感覚の原因探しは、知覚現実の中でたまたま気になったことを原因と思い込もうとしたり、記憶投影現実の中で自分が因果関係があると認識できることを原因と思い込もうとしたりする作業だといえます。
そして、そのようにして結びつけられた感覚と原因の関係が、記憶投影現実の中に明確なイメージとして刻み込まれた場合は、恐怖症やコンプレックスのようなものになってしまいます。
また、特定のこととは結びつかずに、漠然とした感覚のままになっている場合には、その感覚を心の苦しさと感じ、神経症のような状態になってしまいます。
感覚を漠然とさせたままにすると、その感覚は「何とでも結びついてしまう」というとても厄介な性質を持ってしまいます。
そのときの状況やそれを感じる人の「意識の方向性」などによって、結びつく対象(問題意識)が簡単に左右され、自分の体の部分、自分が置かれている状況、過去の出来事、社会的な問題、更に、心や生きる意味といった概念的な事象などを原因と考えてしまい、その解決に取り組もうとします。
また、その時々に気になることに簡単に結びついてしまうので、色々なことが心の苦しさの原因のように思えて、色々なことに悩んでしまうようになることもあります。
例えば、1人でいるときに「寂しい、人と一緒にいたい」と思い、人と一緒にいるときには「1人になりたい」と思うようなことを繰り返すことがあります。
どちらの状況も、考え始めるきっかけは、同じ「心のモヤモヤ」のようなものなのですが、その「心のモヤモヤ」を意識したときの状況の違いによって解釈が変化して、「人と一緒にいたい」とか「1人になりたい」というように異なった気持ちになっていると思ってしまうのです。
このような状態に陥ってしまう原因は様々なのですが、その根本的な部分は同じだと考えています。次に、そのことについて説明します。
例えば、何か失敗したときのことを考えてみて下さい。
同じ失敗でも、それを責める人もいますし、責めずに許してくれる人もいます。
しかし、幼い頃に、何か失敗する度に親から責め立てられて過ごした人は、大人になって何か失敗してしまったときに、まだ責め立てられていないにも関わらず、責め立てられたときの嫌な気持ちが生じてしまいがちです。
その場に自分を責める人がいないと確認できれば、その感覚が気にならなくなればいいのですが、そのように単純にはいきません。
相手がどのような人なのかには関係なく、みんなが自分のことを責め立てそうな感じがしてしまいます。
そして、失敗を隠そうとしたり、失敗から逃げだそうとしたり、失敗しそうなことには手を出せなくなったりしてしまうのです。
これは、感覚(責め立てられたときに生じる嫌な気持ち)をオーバーラップさせる対象に狂いが生じていることが原因です。
本当は、その感覚は自分を責め立てた親にだけオーバーラップすべきものなのです。
そのような限定的に生じるべき感覚を人間全体にオーバーラップさせるようになるのは、幼少期の家庭でのコミュニケーションによる影響が大きいと考えています。
子供が自分の行動を通して「このような状況では、このようなやりとりが行われる」というコミュニケーションの様々なパターンを体験するのが家庭です。
また、子供にとって重要度や密度が高いコミュニケーションも、家庭での親との間で行われるものです。
このような背景から、家庭でのコミュニケーションが、子供にとってのコミュニケーションの標準となっていきます。
そのような働きのある家庭において、子供が特定の価値観に基づくコミュニケーションだけを繰り返し経験してしまうと、それが価値観やコミュニケーションの標準となり、成長に伴って広がる人間関係にも、その標準をオーバーラップさせるようになります。
ですから、子供にとっては、様々な価値観やコミュニケーションがあることを感じながら育っていくことが理想的だと考えられます。
しかしながら、家庭に独特の価値観やコミュニケーションがあるということも一般的なことですから、それだけが問題になるとは考えにくく、成長の過程で巡り会う人たちとのコミュニケーションによって、適切に修正されていくことも期待できます。
ただ、1つだけ問題になる価値観やコミュニケーションの種類があります。
それは、人間関係を否定したり破壊したりするようなものです。そのような価値観やコミュニケーションを人間関係の標準としてしまうと、心地良い人間関係を築くことが困難になり、その結果、コミュニケーションの中で、偏った価値観が修正される確率も低くなってしまいます。
そのような「人間関係を否定したり破壊したりするコミュニケーション」によって陥る可能性のある状態の1つが、例のように、「失敗したときには、みんなに責め立てられるように感じてしまう」という状態なのです。